執筆活動

「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

GALAC2020.11月号  

「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長:室山哲也)

 

  • 「科学ジャーナリズム」と聞くとドキッとする

「科学ジャーナリズム」の現状についての原稿を依頼され、私は少々、困っている。「科学ジャーナリズムとは何か」について、教科書的には説明できても、釈然としない気持ちが残るからだ。NHKで科学番組や解説委員を40年もやってきたのに、いまだによくわからない。それどころか、ますますその気持ちが強くなってきた。私は、大学時代は法学部、いわゆる文科系の人間だ。NHKに入局後、何の因縁か、科学番組部のディレクターとなり、その後、多くの科学報道や、科学番組に携わった。教育テレビの科学番組も作ったし、クローズアップ現代で、宇宙開発やノーベル賞、サリン事件も報道した。NHKスペシャルで、脳科学のドキュメンタリーや、天文学、生命科学、原発報道にも携わってきた。それらを通じて、数多くの科学者や専門家とも向き合ってきた。

しかし、自分が「科学ジャーナリスト」かと問うと、どこか違和感がある。大学で物理学や数学、生物学を専門に学んだ、著名な科学ジャーナリストとくらべて、自分との違いを感じてしまう。

私が、文字を使って表現する記者ではなく、映像を使うTVディレクターだったからかもしれない。

「記者は狩猟民族、ディレクターは農耕民族」という言葉があるが、記者は刻々と変化する社会事象に切り込み、情報をまとめ、11秒でも早く、正確に伝達する仕事だ。一方ディレクターは、同じ情報でも、すぐには報道せず、種をまき、1年後に実った実を収穫して、番組(物語)として放送する。

もちろん私も、科学に関する番組やニュースに関わるとき、元情報に当たる。研究した科学者を何度も取材し、論文を読み、社会的価値としての位置づけを行い、もう一度内容を確認したのちに、放送する。

しかし、高度な科学情報の場合、理解するのも大変だし、わかりやすく伝えるのはとてもむつかしい。私は七転八倒し、研究内容を易しく解説してくれるほかの研究者の講釈も受け、再び、ターゲットの科学者の研究室のドアをノックすることもあった。

半分冗談だが、「正しく」報道するのは、簡単だ。論文をそのまま見せればよい。しかしそれでは報道にならないので、情報を翻訳したり、単純化したりしながら、視聴者や読者に伝える必要がある。しかし、ここで大きな壁に突き当たる。「正確すぎると伝わらず、単純化しすぎるとウソになる」からだ。本質を見誤らず、適切な言葉や表現で単純化し、情報を正確に伝えるのは、本当に至難のわざだと思う。

 

  • 日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)がめざすもの

私は、1年半前NHKを退職したのち、今は、日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)という組織に属している。この会は、19947月に、新聞、放送、通信、出版などの科学ジャーナリストたちが、組織を超えて交流し、刺激しあいながら、新しい価値を生み出そうと誕生した。現在では、新聞記者、テレビプロデューサー、出版の編集者のみならず、大学研究者、フリーランス、企業の広報、弁護士、主婦、学生も参加して、会員数200名を超えるまでになっている。

JASTJの活動は、月例会(講演会)や見学会、会報発行、出版、科学ジャーナリスト賞(その年の優れた記事、著作、放送、展示などを表彰)、JASTJ塾(後進の育成)、科学ジャーナリスト世界会議への参加など、多岐にわたる。

JASTJの長所は、会員と活動の多様性だ。放送業界で仕事をしてきた私は、私の分野とは違う様々な科学ジャーナリストたちの、取材の仕方、伝え方の多様性に触れ、感心するとともに、自分が、放送業界の人間だと、あらためて気づくのだ。

 

 

  • 科学ジャーナリズムの意義

私が、NHKスペシャル「人体:脳と心」の制作にかかわっていた時、取材先でよく「カニッツアの三角形」の話を聞いた。図に書かれているのは、折れ曲がった線と、円に切れ目が入った図形だけなのに、なぜか真ん中に白い三角形が見えてくる。これは、人間の脳が、断片的な情報を手掛かりに、勝手に作り上げた幻影だ。この現象は、人間の脳の機能のすばらしさとともに、脳の危険な落とし穴も示している。脳は、外部からの信号をもとに、脳内に「世界」を作り出す。そして、この仮想情報は、高次になるにつれて、その人が属している文化、国、環境に影響される傾向があり、異なる主観を生み出していく。この多様な主観を乗り越え、できるだけ客観的で、検証可能な認識に近づくために、科学的手法があるのだと思う。

 

あるアメリカのジャーナリストは、記者の基本は「マリスの除去」だと述べた。「マリス」とは「悪意」のことで、取材するとき、まず自分の心からマリスを除去し、透明な心で、謙虚に取材し、反論に耳を傾け、情報と正しく格闘し、整理し、伝えていく必要があるという。私たちの脳内に浮かぶ、悪意、善意、興奮、喜び、悲しみなどの情動を排除し、できるだけ客観的に、事実を共有できる良質な情報に、磨き上げる必要がある。科学ジャーナリストとは、そのような作業を必要とする人々であり、科学技術が日々進化し、多様化、複雑化する現代社会においては、ますます重要な存在となっている。

 

  • 放送メディアは科学ジャーナリズムを体現できるか

ところで、テレビなどの放送業界における「科学ジャーナリズム」は、新聞や雑誌などとどう違うのだろうか?

以前、月面探査機「かぐや」が、月面の様子をハイビジョンで伝えたとき、専門家との電話で、次のような話が出たことがある。

「室山さん、見ましたよ。私は、あそこで写っているものや事象は、すべて知っていました。でも、見てびっくりしました!」

私はこの言葉を聞いて、うれしくなった。「知っていたけどびっくりした」とは、映像が持つ存在感が、文字や記号や知識の範疇を超え、潜在意識に、何か強烈なものを伝えたからではないだろうか。私は、これはテレビマンとしての最高の誉め言葉だと思った。

また、プラネタリウムを作るとき、目で見える星以外の、見えない星もすべて投影するという話を聞いたことがある。そのほうが、宇宙空間のリアリティが増すというのだ。見えないのに、なぜリアリティが増すのだろうか?映像の世界には、文字とは違う、何か特別な潜在的な情報が含まれているのだろうか。

放送では、もちろん言葉や文字も使う。その部分は、新聞と同じだ。しかし、それに映像が加わった時、「科学ジャーナリズム」がどのように変質し、成立するのか?私には、まだよくわからない。もう少し、時間をかけて考えてみなければならない。

 

  • CGが作り出す世界

最近の放送を見ていて、気になることがある。

それは、番組やニュースで使われるCG(コンピューターグラフィック)についてだ。じつは私も、科学番組を作るとき、やたらとCGを使ってきた。今から20数年前「NHKスペシャル脳と心」のディレクターをしていた頃、CGは最先端の表現手段として注目されていた。当時、CGと言えば、メタリックな映像が主流で、リアルな映像との合成が、やっとでき始めた頃だった。その後、コンピュータ技術の目覚ましい進歩で、どこがCGかわからないほどリアリティを増し、今や、テレビ業界では、CGを使わない日はないほど、日常的なものとなっている。

しかし私は、この状況に、漠然とした不安を覚える。

例えば、科学番組やニュースで、脳のメカニズムを説明するとき、ポンチ絵程度なら問題はないが、本物と見間違えるようなCGで説明した時、それが、虚構なのかリアルな世界なのかがわからなくなってくる。

特に、大型の科学番組などで、神経細胞の世界を、ダイナミックな視点移動で説明したり、神経伝達物質の様子を、色を付けて映像化するなど、一大スペクタクルとなっている。まるで、見てきたような感動があり、何よりもわかりやすい。しかし、所詮、CGは作り物である。実際の脳は、中身がぎっしり詰まっており、もっと複雑で、混沌とした世界だ。

もし子供がこのテレビを見て、脳は、そのようなものだと思い込んだら、どうなるのだろうか。きちんと整理された、知識の体系を学ぶのは、いいことだとは思う。しかし、現実の世界に直面し、その複雑さと存在感に触れたのちに、CGで理解する順序ではないだろうか。現実を体験しないまま、疑似映像が多用され続けていくとしたら、この世界に対する敬意や、畏怖の念が忘れ去られ、本当の意味での「科学的思考」を身につけることが出来なくなっていくのではないかと思う。

 

 

  • 未来の科学ジャーナリズムを育てるために

科学ジャーナリズムが、今後、成長するには何が必要だろうか?それは科学ジャーナリズムを支える、スペシャリストの育成に尽きる。海外で取材すると、50代や60代の科学ジャーナリストたちが、生き生きと取材活動を続けている様子をよく見かける。彼らは、知識は豊富で、人脈も豊か。時には専門家が一目置くような発言もする。一方、日本からのジャーナリストは、どちらかというと、若い人が多く、その厚みや存在感において、やや劣っていることを否定できない。

放送局勤務の私の経験から言うと、一般的に、人事の方針は、ジェネラリスト重視。優れた科学ジャーナリストも、部長や局長など、いわゆる「ライン」に乗せ、「出世」させようとする傾向がある。ジェネラリストは、スペシャリストよりも上位だという、伝統的な考え方があるのかもしれない。しかし、高度化、複雑化する科学報道の世界で、このままの状態が続いていいと思えない。今後検討すべき課題ではなかろうか。

日本は、これから、どこへ向かうのだろうか?

司馬遼太郎は、著作「坂の上の雲」で、欧米を追いかける日本を、坂の上の欧米の雲(知識)に向かう存在と表現した。しかし、時が流れ、日本は、既に「雲」に到達し、その先に続く坂を、自らの足で、登る存在となった。

もはや模倣すべき対象はいない。

これからの日本は、独創性こそが、問われる時代となる。

そのためにも、私たちは、激変する科学や技術の状況を深く理解し、高い次元で市民と情報を共有し、自ら考える人材を育て、科学ジャーナリズムを、さらに進化させていく必要があると思う。

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「原爆が分けた人生の光と影」2020.8.6

75年前、私の父は朝8時過ぎに広島駅に着く列車に、友人達と乗っていたはずだった。ところが朝、突然の腹痛で、母親は、列車に乗るのを強く止めた。友人たちは、そのまま列車に乗り、全員死んだ。父は、自分だけ生き延びたことを恥じ、贖罪の気持ちから、時々、小さかった私たち子どもを、原爆資料館に連れて行き、その話をした。子供心に恐ろしい風景が胸に刺さった。その後、成長した私はNHKに入り、広島転勤となった。そこで南方特別留学生のドキュメンタリーを作った。東南アジアから集められた要人の子弟が、広島で被爆し、非業の死を遂げた物語。死ぬべき父が生き残り、その結果この世に生を受けた息子が、いなくてもいいのに被爆して死んでいった人々の番組を作った。不思議な因縁。ヒロシマは今も、私の心に複雑な影を落としている。

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硫黄島の不思議な体験


こんな話をしていいのだろうか?2009年に硫黄島で皆既日食生中継をしたとき、奇妙な体験をいくつもした。当然島には旅館などなく、自衛隊の宿舎にお世話になり、10日間?を過ごした。島には1万もの遺骨が埋もれ、耐え難い太陽の日差しが降り注ぐ信じられない過酷な環境。炎天下の中継準備でふらふらになって宿舎に戻り、食事をして別途に潜り込む。うとうとした瞬間、何者かが僕の頭頂部をガツンと殴った。気のせいではない。何度も殴られた。しかしふと見ると、僕の枕の1-2センチの上は、ベッドの壁。誰かが腕入れる隙間はない。気のせい?そうかもしれない。しかしあまりにもリアルな体験。あれは何だったのだろう?翌朝自衛隊の若者にそのことを告げたら、「やっぱり出ましたか」。そのような話はいっぱいあると告げられた。僕はその他の体験もすることとなった。

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硫黄島に原初の皆既日食を見た 2009.7.22

 

今日、太平洋戦争の激戦地、硫黄島の皆既日食中継から帰ってきた。硫黄島は、今なお各所に戦車や大砲の残骸、壕が残り、1万人以上の遺骨が眠るすさまじい島。栗林中将の執務室のある壕にも入った。身を狭めても通れない程の穴が地下に向かって延び、次第に蒸し暑さが増し、もう地上に戻れないのではないかと恐怖感すら覚える。言い古された言葉だがまさに地獄。よくぞこんなところに潜み戦ったものだ。
何の因縁か、その硫黄島が今回の皆既日食観測のベスト地点とわかり、国立天文台のチームのお世話になりつつ、自衛隊機で島に向かい、生中継にのぞむことになった。NHKスタッフは僕を入れてわずかに4人。重量や人数制限でこの数に絞り込んだのだが、通常あり得ないわずかな人数。装置とスタッフの不足で、東京からの映像の送り返しも見えず、コーディネーションの声も聞き取りにくい環境での中継だった。そして空からは突如スコールが降り、生放送の直前でも避難せざるを得ない、今まで体験したことにないきびしい状況となった。僕たちはずぶぬれになりながら、雲の合間にやっと皆既日食を目撃できた。
皆既日食の光景はすばらしいものだった。今までテレビで見たことはあったが、現場で見るとまるで違った。しかも今となると、中継環境の悪さが逆に幸いだったとすら思える。それは、結局、現場で「生皆既日食」を見続けることができたのは、僕だけだったからだ。カメラマンはカメラのファインダー越しの日食しか見ない(それが仕事)。天文台の先生方もモニターや太陽が送ってくるスペクトラム分析のモニターは凝視するが、「生日食」は見ない。僕のようなリポーターも普通は、太陽の話になるときはモニターを見ながら話すのだが、送り返し映像を見ることが出来ないので、僕はそのすべてのプロセスを肉眼で見届けることになった。テレビを見た人の中には、僕のコメントと太陽の画像がシンクロしていないことに気づいたヒトもいるだろうが、それはそういう理由からだった。
それにしても、肉眼で見る皆既日食はすごかった。太陽のドラマチックな変化とともに、周囲360度の状況が同時に変化するのだ。「日食は目で見るものではなく、体全体で感じるもの」と言ったヒトがいたが、まさにその通りだと思った。
息をのむような天体ショーの最中も、硫黄島は静かだった。皆既日食では、普通人間の集団から歓声や拍手が起こり、ざわめきに包まれるものだが、硫黄島で聞こえたものは、波の音だけ。硫黄島の前回の皆既日食は850年前。人も住まず、鳥と小さな昆虫しかすまない硫黄島上空を、きっと皆既日食は、このように、音もなく、悠然と通り過ぎていったのに違いない。
僕は偶然にも、硫黄島に「原初の皆既日食」を見る、おそらく初めてのテレビマンとなった。

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インターネットと透明人間

インターネットと透明人間(2007.1.14)

 

私は、いわゆる「インターネットいじめ」をうけたことがあります。

関係者が多いので、詳しい記述は差し控えますが、「凄絶」「残酷」などの言葉では、簡単に表現できないような、異常な体験でした。

いじめる第3者側は「祭り」とよんで、軽いノリで書いているらしいのですが、表現は次第にエスカレート。毒気を増し、ふだんは聞いたこともない罵詈雑言になっていきました。インターネット上に仲間がいるらしく、言葉が次の言葉に火をつけ、自己増殖する感じで、数十、数百もの中傷があらゆる方向から降り注いできます。その言葉に傷つき、ついに僕の友人の3人が心身症になり、ひとりは会社を辞めるまで追い詰められてしまいました。

私たちは、もし人を非難するときでも、相手の表情を見ながら話せば、普通そこまでいきません。ノンバーバルな言葉が全体を包み、血のかよった豊かなコミュニケーションが成立しているからです。ところがネットいじめの言葉は、普段は使わないひどいものばかり。おそらくその人たちも、日常生活では絶対使ってはいないのではないでしょうか。

 

なぜ、こんなことがおきるのでしょうか。

 

インターネット上で、文字のやり取りをする場合、情報量が少ないので、表現が先鋭化し、極端になっていく傾向があるという説明をよく聞きます。おそらくそうだろうと思いますが、私はその背後で、もっと深刻なことが起きているような気がします。

 

ある脳科学者が「ボディイメージ」という面白い話をしてくれました。

私たちの脳は、もともと手や足などからなる「人体」と強い絆で結ばれています。身体を取り巻く周囲の情報が、視覚、触覚、聴覚などの五感を通じて脳に入力され、脳の中に「イメージ」が生まれます。逆に脳は、作り上げたイメージを土台にして、指令を出力し、筋肉を操って、身体に移動を命じたり、物をつかませたりしています。このとき、脳の中には「ボディイメージ」と呼ばれる「身体の地図」が出来ており、その地図をベースにして、対象物との距離を測り、つかんだりいじったりしているというのです。

「座って半畳、寝て一畳」しかない、人間の小さな身体。傷を受ければ出血し、死にいたってしまうはかない人体。脳はそのことを熟知し、この身体をどのように操り、生きていこうかを常に考え続けているのです。脳は、身体の虚弱さのゆえに、命のはかなさも知っているのです。もともと人間の脳と心はそのようなものでした。

ところが、脳には、もうひとつの別の側面があることがわかってきました。

サルに道具を使わせると、脳内のボディイメージが道具にまで拡大される研究があります。今まで自分の身体を認識していたニューロン(神経細胞)が、道具を手の一部として認識し始めるというのです。

道具を操る職人が、よく、「道具の先に触れるものの形や硬さ、状態までもがわか

る」と言います。そのとき、道具の先は指先と同じで、脳内の「ボディイメージ」は、道具と一体になった「サイボーグ」のようなものになっているのでしょうか。

この理屈を広げていくと、色々なことが理解できます。

自動車を運転するときの「車間距離」や「車幅感覚」は、自動車が自分の身体のように思えているからかもしれません。タイヤを蹴られると、身体を蹴られたかのようにハラが立つのも、納得がいきます。タンカーを操縦する船長のボディイメージは、堂々とした巨大な鋼鉄製の船のイメージなのかもしれません。

この理論でいくと、インターネットに接続されたときの脳には、どのようなボディイメージが出来ていることになるのでしょうか。

脳は、クモの巣のように果てしなく広がった身体を得て、どこにでも自らの触角を伸ばし、世界を知り、逆に世界に働きかけることが出来ます。無数のサーバーには、無尽蔵の情報が蓄積され、森羅万象の物語、科学的成果、バーチャル住民との虚構の市民生活が詰まっています。そこには「座って半畳、寝て一畳」の虚弱な身体は、もはやなく、生物界の原則を越えた、今まで見たこともない、モンスターのようなボディイメージが出来ているのかもしれません。数百万年かけて人類が獲得してきた人体イメージは、まるで透明人間のように透き通り、淡い粒子となって消え去っているのかもしれません。

「人間とはそのようなものだ」といえばそうかも知れません。人類が、獲物をとるとき最初に棒を手にしたときから、その物語は始まっていたともいえます。しかし、科学技術が爆発的に進歩する中で、生物としての人間の約束事まで急速に塗り替えられ、「生存」にかかわる事態が発生しているのではないかと、私は時々、不安になってくるのです。

インターネットいじめは、そのような文脈で起きているのではないでしょうか。そこは「生物としての掟」が通用しない世界。天使のような人間と、悪魔のような人間が、むき出しで生息する空間なのかもしれません。

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「“心の安全基地”の大切さ」室山哲也 2019.12.18

数年前、JAXA主催で、世界の宇宙飛行士による「人はなぜ宇宙に行くのか?」という3日連続のシンポジウムがあり、私が司会をすることになりました。

その中で、「人間にとって冒険とは何か?」という議論が展開され、興味深い話が出てきました。

「冒険」は人間だけでなく、哺乳類もするというのです。

例えば子ネズミは、母親の元を時々離れ、探索行動をします。周りの環境がどうなっているかを確かめるために、周りをうろうろして、しばらくしたら慌てて母ネズミのもとに戻ります。母親はいわゆる「安全基地」。子ネズミは、安心して探索行動を繰り返し、精神世界を広げていくのだそうです。しかし大人になると、この探索行動は消え、子ネズミの「冒険の時期」は終了します。

しかし、奇妙なことに、人間だけは、大人になってもこの探索行動をやめない。

それは一体なぜか? 自分を守る親がいなくなっても、自分の友人たちや、グループ、組織、社会を「安全基地」として位置づけ、冒険を続けていくからなのだそうです。

つまり人間は「心の安全基地」を、成長の途中で切り替え、果てしない探索行動(冒険)を続ける存在だというのです。そしてこの行動を通じて、新しい発見をくりかえし、社会に持ち帰って共有し、文明を発展させていったというのです。

ウーム、いい話だなあ。

この話を敷衍すると、人類が宇宙に進出するとき、母なる地球がいつまでも豊かで、心安らげる場所でなければ「宇宙への挑戦」は成り立たないということになります。地球が荒れ果てた惑星となり、生活不能となった時、宇宙への進出は、「新しい文明を創造する冒険」ではなく、ただの「放浪」になるのです。

この話を聞きながら、私は、武蔵野東学園を連想しました。

娘の李紗は、武蔵野東の学園祭が大好きです。少し前から待ちわびて、そわそわしています。そこに行けばリサの名前を呼んでくれる先生方がいて、懐かしい友人たちにも会えるからです。李紗にとっての武蔵野東は、おそらく「心の安全基地」なのではないでしょうか。年を重ね、大人になっても、自分が帰るべき場所さえあれば、安心して歩みを続けていくことができるのです。

「心の安全基地」は、安心、成長、創造の源なのです。

今、私たちの周りに「心の安全基地」はどのくらいあるのでしょうか?

友人たちとつくるグループ、近所の方々、会社や学校、そして家庭・・。

日本という国のあちこちに「心の安全基地」がもっとできれば、子供たちは、もっと、すくすく育ち、冒険を続け、より豊かな社会を創っていってくれるに違いありません。

(娘のリサは自閉症で、幼稚園から専修高校まで、武蔵野東学園にお世話になりました)

 

 

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おもしろ人間学①「人間とは何か?」2019.11.8

おもしろ人間学①「人間とは何か?」(室山哲也)

 

  • なぜ今「人間」なのか?

「我々はどこから来たのか?我々は何者か?我々はどこに行くのか?」(ポール・ゴーギャン)

人間とは何か?というこの問いは、おそらく人類が生まれたころからあったのではないでしょうか。ネアンデルタールの洞窟で発見された人骨のそばには、大量の花粉が見つかり、当時の人間がすでに「死」を意識し、死者を弔った跡ではないかといわれています。「生きることと死ぬこと」にネアンデルタールという人類の仲間が、すでに目を向け、認識し、その事実に向き合っていた姿が見えてきそうなエピソードだと思います。

最近、本屋に行くと「人間とは何か?」といったテーマの本がずらりと並び、中にはベストセラーになる本もあるそうです。このブームの背景には、社会が不安定化し、災害や事件が相次ぎ、格差社会が広がっていく中で、「人間とは何か?」「人間の幸せとは?」といった根本的な問題に、人々の目が向き始めているからではないでしょうか?

 

ある研究者の話では、20世紀以降、科学や技術が急速に進んだせいで「人間の定義」がしだいに揺れ始めているといいます。かつて人間という存在は、生き物や物を超えた崇高で特別なものだと信じられてきました。しかし科学研究が進む中、その確信が、だんだん怪しくなってきているのです。まず、生物学や「霊長類研究」が進み、人間にしかないと思われていた行動や心理が、意外に生物界に広くみられるということ。もう一つはIT技術の進化で、人間の脳にしかできないとされていることが、コンピュータで代替できるようになったこと。この二つの科学や技術の進化で「これこそが人間の特徴」といえるものが、次第にぼんやりとし始め、リンゴの芯のようにやせ細ってきたというのです。

けれども私たち人間は、それでも、今もどこかで「自らの優位性」を信じ、人間存在にプライドを持っていることもまた事実。そういう訳で「人間とは何か?」をもう一度根本的に考え、自らを再確認したくなっているのではないでしょうか?

 

  • ヒトはこうして生まれた

人類はいつ誕生したのでしょうか?現在の科学的な説明はこうです。地球が誕生したのが今から46億年前。これを1月1日とし、カレンダーのように生命史の出来事を並べていくと・・生命誕生(1月下旬)、真核生物誕生(7月7日)、植物誕生(11月25日)、爬虫類誕生(12月5日)、哺乳類誕生(12月14日)、ホモサピエンス誕生(12月31日23時37分)となります。私たち人類が誕生したのは、日本でいうとNHKの紅白歌合戦が終わろうとしている大晦日ぎりぎりありで、地球史から見ると、人類は、まったくの新参者だということがわかります。人間の文明の始まりともいえる「農耕」が始まったのが1万年前、産業革命が200年前だということを考えると、私たち人類は突然地球上に現れ、環境を瞬く間に作り替え、破壊し、地球温暖化や環境汚染を引き起こす、ケシカラン生き物だということがわかります。現在地球上には3000万種ほどの種が生きていますが、そのなかの、たった1種の人類が行っている乱暴狼藉は「人間という生き物」とはいったいどういうものなのか、考えざるをえない事実とも言えます。

 

  • 脳はこうして巨大化した

人間の最大の特徴は、他の動物に比べて脳が発達している点です。脳を使って世界を知り、考え、言葉を使ってコミュニケーションし、ものを創造してきました。人間は脳を使って文明を作り、豊かさを手に入れてきたのです。

しかしこの素晴らしい能力を持つ「脳」は、ある偶然で進化したという仮説があります。

今から700万年以上も前、アフリカの東部、今のエチオピア、ケニア、タンザニアあたりで激しい火山活動や地殻変動が起き、土地が隆起し、場所によっては4000メートル級の山脈が誕生しました。今までその一帯では人とサルの祖先が、森林の中で樹上生活をしていたのですが、山脈ができたため、大西洋から吹いてくる湿った風が、東側に吹き込まなくなり、山脈の東側の土地が乾燥して、森が消滅し、草原になっていったというのです。

山脈の東側にいた人類の祖先は、そのため、木にぶら下がって移動したり、生活できなくなり、結果、草原を移動するとき、二足歩行を始めたというわけです。二足歩行すると、両手が自由になるため、手でものをつかんだり、つまんだりしながら、脳も発達しはじめました。二足歩行すると、垂直方向の力に強いため、重い脳を支えることができ、人類進化が加速したというストーリーです。この説が正しいとすると、私たち人類の最大の特徴の脳の進化は、自然の変化や気候変動で、たまたま起きたということになります。崇高な意思で何者かが人間を作ったのではなく、偶然の結果だという物語は、逆に何かおかしく、人類に対して、いとおしい感情がわいてくるような気もします。

 

  • 不思議の臓器「脳」

さて、いずれにしても私たちの脳は巨大化し、複雑な機能を持ってきたわけですが、脳についてはわからないことや謎だらけです。そもそも「心」がどこにあるのか、どのように生まれるのかも、きちんとわかっていません。大多数の脳生理学者は、心は脳の中にあるといいますが、心の座が心臓にあるとか、体全体にあるとか、人と人との間に生まれるとか諸説紛々。たとえ脳の中にあっても、脳のどこにあるのかがわからず、あいまいな返事しか返ってきません。ということで本日は「わかっていること」の一部をご紹介したいと思います。

 

  • 脳には3匹の動物が住んでいる

「脳には3匹の動物が住んでいる」という言葉があります。これは昔ある学者が唱えた説ですが、理解するのによくできた説なのでご紹介しましょう。まず一番深いところに「ワニの脳」があり、その上に「ウマの脳」、その上に「ヒトの脳」が三層構造のように乗っかっているという考え方です。「ワニの脳」は呼吸や血圧など「生きるため」の中枢。「ウマの脳」は喜怒哀楽。「ヒトの脳」は記憶したり考えたりする知性の中枢でそれぞれが連動して脳は働きます。人間は進化のプロセスで脳を巨大化させてきましたが、新しい脳を上に上に建て増しする形で進化させてきました脳の神経細胞の多くは表面の「ヒトの脳」(新皮質)にありますが、これを広げると新聞紙の大きさにまでなります。脳は巨大化につれて、行き場を失い、表面積を大きくするため、脳全体が折りたたまれて、表面にしわがいっぱいできたと説明されています。

さて、コンピュータと人の脳を比較した時、この3層構造こそ、人間の脳の特徴といえます。ヒトの脳は、もちろん知性を持ってはいますが、基本的に脳は、生きるためにつくられたものです。知性以外の喜怒哀楽も、せんじ詰めれば生き延びるために生まれたもので、人間がものを考えるとき、「ワニ」「ウマ」「ヒト」の脳が同時に活動して知的活動を成立させているのです。人間同士がコミュニケーションするときも、この3匹の動物が丸ごと働いて情報交換していることを忘れないようにしなければ、人間の脳の活動やコミュニケーションの、本当の意味はわかりません。人間の脳は知性と感情が分かちがたく絡み合った、複雑な働きをしているのです。

 

  • わかった時は脳が喜ぶ

「アハ体験」という言葉があります。何かを考え続け、ついにわかった時に「わかったぞ!なるほど!」と感じる瞬間の現象です。例えば私たちが、いくつかの断片的な情報の写真を見たとき「これは何だろう?見たことあるような・・」という悶々とした気持ちになりますが、正解の写真を見せた時、「なるほどこれか!」とわかります。じつは「これは何だろう?」と考えるとき、脳の中では、自分の記憶を探り、つなぎ合わせて、見ているのものがどれに当たるかを激しく検索しています。これは結構つらい作業なのですが、正解がわかったとき「なるほど!」と脳内で快感物質が出てきて、とてもうれしい感情がわいてきます。いわば「脳が喜んでいる」わけです。この現象は人間の知的好奇心と深くつながっていると考えられ、わかった時の快感を求めて行為を繰り返すと、脳内の回路の道筋ができ、回路が増強していくと考えられています。これがいわゆる「学習」です。いずれにしても、人間の脳は、この仕組みを通じてパワーを爆発させ、、知的好奇心を最大限使い込んで新しい文明を作ってきたのではないでしょうか。

 

  • 脳が世界を作る

「脳が世界を作る」という言葉もあります。例えばマッチ棒がばらばらと放り出されている図を見ていると、人間の顔が見えてくるというようなことはないでしょうか?人間の脳は、このように断片的な情報をつないで、あるイメージを作り出す傾向があります。たとえば森を歩いているとき、木々に茂っているはっぱを見ていると人間の顔が見えてきたり、幽霊を見たというエピソードを聞きますが、それも同じ現象です。またある図を見ると、真ん中に白い三角形が見ます。しかしよく見ると、折れ曲がった黒い線と、パックマンみたいな黒の半円は描かれていますが、真ん中の白い三角形は描かれてはいません。私たちの脳は、この黒い図をつないで、真ん中にありもしない白い三角形を作り出すのです。これは人間の脳の特徴で、この能力があるため、私たちは断片的な情報をつないで、その背後にある規則性やルールを発見し、世界を体系的に把握することができます。これは「想像力」であり「創造力」でもあり、私たちはこの力を使って、文明を作り上げてきたといえます。しかし、すでにお気づきのように、この能力は、別の角度から見ると「錯覚」につながるもので、使い方によっては大きな害をもたらす側面もあります。このように脳には非常に優れた側面と、大きな落とし穴が共存しているのです。例えば、よく切れる刀は「人を救うメス」にもなり、「人を殺めるドス」にもなります。それと同じように、脳は、幸福を創造する側面と、不信感や破滅につながるものにもなりうるのです。「脳」のパワーをどう使うのか?それは私たちの意識そのものにかかっているといえるのです。

 

  • 視点を変えると違うものが見える

ある一点に注目すると、別のことに意識が及ばない現象があります。例えばこの女性の顔の絵を見ると、若い女性に見えたり、お年寄りの女性に見えたりします。一つの顔が見えているときはもう一つの顔は見えませんが、両方見えたのちは、この絵が2つの顔が書かれていることを学習し、脳がその絵の特徴を理解します。この「視点を変えると違うものが見える」現象は、地図を例にとるとよくわかります。日本人がよく使う世界地図は、太平洋が中心のものですが、欧米では大西洋中心の世界地図がポピュラーです。この地図では、日本は東の果ての島国だということがよくわかります。またオーストラリアで売られている世界地図では、上下が逆になっており、今まで意識したことがない世界が広がっています。この地図を見ると、日本がカムチャッカ半島から沖縄方面に連なる列島の一部であることがよくわかります。また日本海は大陸から文化が伝来した「表玄関」だということもわかります。さらに、北極海上空から見た世界地図を見ると、北極海がカナダ、アラスカ、ロシア、ヨーロッパ、いわゆる文明国が取り巻いた「内海」だということが見て取れます。最近、地球温暖化で北極海の氷が消失しつつありますが、もしも氷が消えたら、北極海は、地の果てどころか、世界の中心に位置する「一大経済圏」となる可能があることが理解できます。このように「視点を変えると違う世界が見えてくる」「脳内に違う精神世界ができる」のです。22世紀は異文化接触、異文化衝突の時代です。「視点が変わると違うものが見える」という事実を、私たちがよく理解し、本当の国際人になっていかなければならないと思います。

 

  • まとめ

私が親しくしているある動物園の園長さんが「ヒトばかり見ているとヒトがわからなくなる」と口癖のように言っていました。外国に行くと日本のことがよくわかるように、違う視点に立つと物事の本質が見えてきます。しかし考えてみると、これができるのは人間の脳があるからです。私たちには「イマジネーション」という強い武器があり、それを駆使して物事を多面的にとらえることができるからです。人間の脳についてはまだまだ分からないことだらけですが、一つ一つ人間の脳と心の本質がわかり、それが私たちの生活をより豊かにしてくれることを、これからも切に望みたいと思います。

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昔の作文図書館2019.11.8

チェルノブイリ原発事故から学んだことNHK解説委員室山哲也)

  • ホデムチューク夫人との出会い

・今から21年前の春、私はNHKスペシャル「汚染地帯で何が起きているか~チェルノブイリ事故から4年」という番組制作のため、チェルノブイリの汚染地帯の長期ロケをしていた。状況は混乱し、情報は不確定で、いったい汚染地帯で何が起きているのかがさっぱりわからず、疲労困憊のロケが続いていた。「取材チーム」といっても、予算は少なく、NHKでは、ディレクターの私と、嶋田カメラマンだけ。それに同行をお願いした、元理化学研究所で、放射線科学のエキスパート岡野真治博士と、測定担当の浜松ホトニクス小池清司さんの4人。チェルノブイリ原発事故という怪物と戦うには、あまりにも虚弱な人数だった。ある夜、私たち取材チームは、うまくいかない取材に疲れ果て、ウクライナのキエフの食堂酒場で、夕食をとり、ウオッカで疲れをいやしていた。薄暗がりの洞窟のような店内のあちこちから笑い声やざわめきが聞こえ、奥のほうで婦人会の会合のようなこともやっている。たばこの煙が充満する、一見どこにでもある普通の酒場。ここがチェルノブイリ事故に揺れる最も近い都市キエフだということを忘れてしまいそうな夜だった。ウオッカでほろ酔いになり、キャベツの酢の物を口に入れていた僕に、ある中年の夫人が近づいてきた。「あなたたちは日本人ですか?」「そうですが・・」怪訝そうに振り向く僕に、夫人は続けて話しかけてきた。「通訳の人に日本の放送局の人だと聞きました。実は明日、私はなくなった主人の墓参りに行くのです」「ああ、そうですか。ご主人が亡くなられたのですか。」「一緒に行きませんか?」僕はこの不思議な夫人に少し警戒感を持ち、恐る恐る会話をしていたのだが、話が進むにつれて、ただならぬことだと感じ始めた。「ご主人のお名前は?」「ホデムチュークといいます」ホデムチューク…どこかで聞いた名前だと記憶を探って驚いた。チェルノブイリ事故の消火に当たり、炉心付近で被曝し、亡くなった人と同姓だからだ。「あのチェルノブイリのホデムチュークさん?」「そうです」僕たちはすっかり酔いから覚め、姿勢を正して話に聞き入った。ワレーリ・ホデムチューク消防士は、チェルノブイリ事故の収束作業で死亡したが、遺体そのものが強い放射線を出す状況となり、搬出できず、4号炉が事故収束のため膨大な量の鉛で埋められる時、一緒に埋められてしまった悲劇の人物である。つまり、4号炉はホデムチュークさんのお墓でもあるわけだ。ホデムチューク夫人は事故直後から、なんとか4号炉の中に入り、ご主人の供養をしたいと政府に申し出てきたが、却下され続け、事故4年目になって、やっと許されたらしい。その墓参りを明日やる。一緒に行かないかと申し出てきたのだ。私と嶋田カメラマンはすっかり酔いがさめたお互いの顔を見つめあい、どうしようかと相談した。しかし相談したところで結論は出ない。4号炉の中に入れるという期待感と、放射線への恐怖が交差し、岡野博士に相談した。博士は、うーむと考え込んだのち、「どうせ進入ルートは除染も行われているだろうし、行きましょうよ」とあっさり答えた。「ただし中にいる時間は20分としましょう。」何やら計算したのち、博士はそう答えた。事故から4年たつとはいえ、外国の取材チームが4号炉の中に入ったニュースは聞いたことがない。放射線は怖いが私たちはジャーナリスト魂に火が付き、ロケをすることに決めた。当日、入り口で炉に入るための防護服にきがえ、案内してくれる人と共に、4号炉内部に入った。中はやや薄暗い照明で、物音ひとつない。私たちは、数百メートルほど、妙に角ばって曲がりくねった通路を、右に行き、左に折れながら入っていった。まず、ホデムチューク夫人と、私と嶋田カメラマンが進み、少し遅れて、岡野先生と小池さんが続いた。極度の緊張。進入する途中でいろいろな鉄製のドアが見えるが、案内の人は「絶対あけるな」と、強い声で警告した。まだ強烈な放射線が出ている場所があるらしい。コントロールルームに入ると、事故で混乱した時の状況がそのまま残った、異様な風景が広がっていた。コントロールパネルのボタンは吹き飛んだように多くがなくなっており、巨大なビニールシートがあちこちに張られている。壁にはマジックで殴り書きされた数字やロシア語がみえる。さらに中に入る。内部につながる通路を、バラの花束を抱いたホデムチューク夫人とともに突き進んだ。防護服が暑く、次第に汗が噴き出してくる。カメラをまわし続けながら、私たちは、夫人の顔が悲しみに歪んでいくのが分かった。行き止まりには鉛色の壁があり、ホデムチューク消防士をたたえる彫り物と文字があった。その向こうに鉛とともに埋められた遺体があるということだった。夫人はバラの花束を壁のそばに置き、泣き崩れた。私はカメラのそばでストップウオッチを見ながら、時間をカウントし、20分経過!と告げていた。嶋田カメラマンは、「もうちょっと!もうちょっと!」と言いながらカメラを回し続けていたが、私は彼の背中を引きずるように撤退した。結局滞在時間は、30分間と予定を上回ってしまったが、この30分間の経験は、今でも私の脳裏に鮮やかに残っている。色もなければにおいもしない、放射線という悪魔と戦った男たちの魂が、炉の内部のここそこに漂い、私たちに語りかけてくるような不思議な感覚も覚えた。

 

  • ぼくは「日本で大きな原発事故は起きない」と思っていた
  • じつは、一つ告白しなければならないことがある。私はチェルノブイリ原発事故の大型特集番組に、事故直後、2年目、3年目、4年目、10年目と計5回かかわったが、チェルノブイリのような原発事故は日本では決して起きないだろうと思っていた。そもそもチェルノブイリにある黒鉛炉は、日本の軽水炉に比べて安全メカニズムが貧弱。それに比べて、日本の軽水炉は安全設計が充実しており事故そのものが起きない仕組みになっている(と説明されていた)。万一事故が起きても、日本では、情報を隠したり操作するようなことはなく、効率的合理的に処理し、影響の拡大を最小限に抑えるだろう。なぜなら、ソ連は秘密主義が横行する腐敗した社会主義国。日本は先進的な資本主義国。しかも日本には世界に冠たる技術力がある。チェルノブイリとは全く違う状況。そう思っていた。しかし今、福島原発事故が起き、それは単なる幻想、思い込みだったことが分かった。私は、福島原発から立ち上る水素爆発の煙を見て、身が凍りついたが、その映像は、遠い外国のものではなく、間違いなく日本で起きた映像なのだ。その戦慄。私は、最近、チェルノブイリ事故を取材したジャーナリストの多くも、どこかしら、私と同じような印象を持っていたのではないかと想像することが多い。チェルノブイリ事故に厳しい目を向けていた日本のジャーナリストたちも、「まさか日本ではこのようなことは起きない」と、どこかで安心し、いつのまにか根拠のない原発安全神話にまきこまれ、共同幻想を作っていたのではないか。もしそうなら、我々マスコミも、今回の事故の責任の一端を担っていることになる。福島第一原発の事故後、混乱し、対応に窮する政府、東京電力の様子を見て、ぼくはいつか見た光景と似た、デジャブのようなものを感じた。チェルノブイリ事故から25年。いったい私たちは、今まで何を学んできただろうか。福島でその教訓がきちんと生きていただろうか。そう思えば思うほど、ある種の焦りと虚脱感が私を襲ってくる。
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  • 放射線の人体への影響はどこまでわかったか?
  • 放射線は人体にどのような影響を与えるのか?結論から言って、わからないことが大変多い。しかし、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリなどの研究で、ある程度までは分かってきた。そのポイントをまとめてみよう。
  • 放射線の人体への影響は、よく100ミリシーベルトという数字を境に説明される。いままでの事例を調べると、100ミリシーベルト以上の被ばくがあった場合、人体への影響が出る可能性が出てくる。例えば、一般的に、500ミリシーベルト全身被曝でリンパ球の減少が起き、100ミリシーベルトで悪心や嘔吐(10%)、7000-10000シーベルトで死に至るといわれている。チェルノブイリでも、これらの高線量被曝については、消防士の死亡やがんなどが実際に確認されている。問題は100ミリシーベルト以下の、いわゆる「低線量被曝」といわれるゾーンだ。結論から言うと、影響があるかどうかよくわからない。もしあったとしても、例えばがんの発生など、ほかの要因によるものとまぎれてしまい、特定できないという。そこで、100ミリシーベルト以上で起きることを敷衍して、低線量被曝でも同じようなことが起きているという「仮説」を立てることになった。
  • 一般に毒物などで、安全基準値を決める時、次のような根拠による。例えばある毒物を摂取すると、急激に毒性が高まるポイント(しきい値)があれば、そこを基準値とすると合理的だ。しかし放射線の場合はそのしきい値がない。100ミリシーベルト以上で分かったことを低線量被曝に適用して考える仮説(直線仮説)のため、どこにも急速に毒性が高まる部分がなく、一定の比率で直線的に0に近づいていく。しきい値がないので、基準値を設定する部分はいくらでもあることになる。低線量被曝でよく心配されるのは、がんになる確率だが、直線仮説でいうと、100ミリシーベルト被曝で0・5%増加、10ミリシーベルトで0.05%増加、1ミリシーベルトで005%増加と、0に向かって一律に数値が下がっていく。逆に言うとがんになる可能性は常にあり、がんを減らすためには果てしなく被曝を0に近づける努力が必要ということになる。しかしこの計算はあくまで仮説に基づくもので、本当にそうかどうかはわからない。100ミリシーベルトから0に向かっては、実際は直線ではなく、上に膨らんでいるかもしれないし、逆に下にくぼんでいるかもしれない。しかも一般に言われるように、日本人の半数ががんにかかることを思うと、100ミリシーベルト以下のがん増加率が多いのかどうかわからないし、がんの要因の、たばこやその他の環境要因もあることを考えると、どう受け止めればいいのか迷ってくる。実際、放射線によるがんの比率をどのくらい必死に減らすべきなのかについても疑問が残る。放射線の影響を巡る混乱は、基本的にはこの「わからなさ」につながる直線仮説からきているといってもよい。
  • また被曝には外から被曝する「外部被ばく」と、水や食物を通じて体内に取り込まれ、体の内側から被曝する「内部被ばく」があるが、後者についてもよくわかっていない。いままで内部被ばくで確認されていることは、放射性ヨウ素が子供の甲状腺がんを引き起こす場合があるということだけだ。チェルノブイリでは、政府の対応が遅く、住民への事故の情報公開が大幅に遅れ、大量の放射性ヨウ素が、牛乳や食物を通じて人体に入ったため、子供に甲状腺がんが発生した。事故20年後、大人でも甲状腺がんの増加があるとの報告が出たが、大人の甲状腺がんは多く、どれが放射線によるものかの特定が難しい。子供の甲状腺がんはもともと珍しく、放射線による影響が際立つため、放出された放射性物質(放射性ヨウ素)との関係が認められたわけだ。原発事故で、よく問題になる放射性物質には、このほかにも放射性セシウムや、ストロンチウム、プルトニウムなどがあるが、福島の場合、今のところ問題になるものは、放射性ヨウ素以外は、放射性セシウムだ。半減期が30年と長く、環境にとどまることで、内部被ばくが心配される。しかし、チェルノブイリの報告では、放射性セシウムによる内部被ばくの影響は、今のところ報告されていない。もちろん「報告なし」は「安全だ」と同じとは言えないわけで、今後長期的な調査を絶え間なく続けていく努力が必要となる。

 

  • どうする?原発
  • いろいろとくどくど書いたが、要するに放射線と人体との関係はよくわかっていない。私たちが、今問われているのは、この「わからなさ」、あいまいなリスクに、どう向き合い、行動すればいいのかということだ。しかしそれは難しい問題である。たとえば、社会を運用するには法律や基準が必要だが、放射線と人体への影響については、科学的に不明な部分が多いため、社会的ルールに合理的に反映させることが難しい。福島市などの小学校での放射線基準を巡る混乱も、その文脈に乗っている。日本が仮に全体主義的な国で、国家が定めた安全基準や避難基準に国民が異議を唱えても、強権で押さえつけることができるのならばそれでもいいだろう。しかし日本のような民主主義国では、国民には、自由に基準の根拠を国に問い、批判できる権利がある。その際科学的合理的に説明がつけば、論争はやがて収束するが、科学的に説明しきれないときは、論争が果てしなく続くことになる。科学的あいまいさを乗り越えて、議論によって社会合意を形成できればそれでいいのだ。しかし、今までの成り行きを見ていると、日本社会(ある意味人類全体)の認識は、まだそこまで成熟していないのではないかと思えてくる。福島から来た人を食堂に入れないとか、工業製品の輸入を拒否する国が出るといった、いわゆる風評被害を見ても、私たちの社会が、放射能と共存するしなやかさやしたたかさを、十分に持っていないことがわかる。
  • もう一つ事態を複雑にさせる要素がある。それは放射能がいったん自然環境に放出された時の、予測のしにくさだ。チェルノブイリの時もそうだったが、原発事故直後は、放射性物質の放出量や風向きなどがわからないため、緊急避難的に一定の円を描き(たとえば半径30キロ)、内側の住民を避難させたりする。しかしこの円は、当然のことながら、その後判明する放射能汚染状況とは一致しない。原発から放出された放射性物質は、風に乗って移動するが、常に方向を変える。また、放射性物質が放出されたときの温度によって高度も変わる(チェルノブイリのような爆発を伴う場合は高度が高く、福島のような場合は低空を移動する)。そして、放射性物質は雲状になって移動し、地形やその他の自然環境で、落下や拡大の仕方が変わる。山肌に落下したり、高い山に食い止められて迂回したり、雨によって落ちたりする。その結果、放射能汚染地図は、同心円とは異なる複雑な形となる。さらに、地上に落下した後も、水に乗って移動したり、一か所に集まったり、地下水に侵入して遠くの水系に影響を与えたりする。ホットスポットは、水や地形によって、放射能が集まり、放射能が高濃度になった場所だが、この発見が遅れると、当然ながら住民の混乱につながることになる。
  • このような状況を見ると、放射能は何が何でも原発の中に閉じ込め、管理すべき物質だということがわかる。うまく管理すれば膨大な電力を作る有益な物質だが、事故でいったん人間の手を離れると、いろいろなレベルで制御不能となり、混乱を引き起こす。私は、放射性物質は、レントゲン撮影、品種改良など、非常に有用な物質として、今なお有用だが、電力を得るためのツールとしてはどうなのだろうと疑問を感じる。事故に限らず、放射性廃棄物の処理を巡っては、もともと大きな問題が残っている。「トイレなきマンション」などと揶揄されてきたが、高レベルの核廃棄物は、結局のところ深い地中などに長期間保管せざるを得ない。しかし何万年も保管するとき、そこに危険な放射性物質があることを、どのようにして未来の人類に伝えるのかという問題も残る。歴史が始まってまだ2011年。その間、多くの国が亡び、体制が変わり、社会構造が変化し、文化も、言葉すら変化した。数万年以上の時間スケールは、人類の想像力を超える。例えば、地下に保管した放射性廃棄物の存在を知らせるためにピラミッドのような構造物を立てたら、未来人は興味本位で掘り返すかもしれないし、何も作らずにいたら、偶然掘り起こすかもしれない。この状況を見ると、膨大な放射性廃棄物を生み出す原発は、「あとはよろしく」という発想で支えられていることがわかる。現代の利益のために「未来を抵当に入れる」無責任な行為ともいえる。福島原発事故という体験をした今こそ、人類と原発の関係や、未来に向けたエネルギーの在り方を深く考えるべき時だと、改めて思う。

 

  • なぜこんなに騒ぐのか?
  • 私は取材を続けてきて、素朴に疑問を感じることがある。放射線の人体への影響は、ざっくりいうと「大量被ばくでの急性症状」(ソ連政府発表では・人死亡)「放射性ヨウ素での子供の甲状腺がん」(・人死亡?)が分かっているだけだ。放射性セシウムやその他の核種による低線量被曝や、内部被ばくの影響はまだ不明。もちろんこの点については、深い不安は残るが、数字によって実証されているわけではない。ある研究者に言わせると、「チェルノブイリですら死者は大したことない。福島はまだ一人も放射線で死んでいないので心配ない」となる。低線量被曝による死者数予測も、直線仮説に基づき推定されているだけで、母数が増えればその分増加する。よく言われる100ミリシーベルトで5%増加。10ミリシーベルトで0.05%増加という数字も、日本人のがん発生率が半数だとか、たばこやその他の化学物質のがん発生率を考えると、たいしたことないという結論もありうる。しかし、ここで一つの疑問が出てくる。「医学的にそんなに心配ないのならば、なぜ世界中がこれほど混乱するのだろうか?」私はそのギャップが不思議で何人かの有識者に質問したことがある。
  • 答えはある意味、驚くべきものだった。一つ目の考えは「米ソが対立している時代、保有している核兵器の危険性を強調し、核保有国の存在を強調するために、政治的にプロパガンダされたから」。もう一つは「東京大空襲などと比べて、ヒロシマナガサキの補償を確実にするため、違い(放射線)を強調した。ヒロシマナガサキは、人類全体にとっても、大規模な放射線被害であり、日本での位置づけが、やがて世界の考えに影響していった」というもの。真偽のほどは分からないが、きけばある意味なるほどと納得できる。本当のところはどうなのだろうか?放射線には謎が多い。

 

  • 忘れられないエピソード1「サハロフ博士の一言」

・私は、チェルノブイリ事故の取材を通じて様々な人に出会った。まず思い浮かぶのは、ノーベル平和賞を受賞した反体制物理学者サハロフ博士だ。博士は、ソ連で原爆、水爆研究をしたのち、人権活動、アフガン侵攻批判など反体制に転じ、流刑処分されたが、自らの主義を一生かけて貫いた反骨の人だった。私は、NHK広島放送局に3年間いたことがあるが、1988年に、大江健三郎さんとサハロフ博士の対談番組を担当した。対談は、原爆ドームが見える大きな窓のある一室で行われたが、収録の合間に、たまたまサハロフ博士と二人きりになれ、30分程、当時進行中のチェルノブイリ事故の状況をたずねることができた。博士はとても優しく真摯な方で、微にいり細にいり教えてくださった。話の流れで、たまたま僕の父親と原爆の不思議な関係(原爆投下時、広島駅に到着した列車に乗る筈が、たまたま乗らず、友人は死んでしまった話)を話したら、「あなたはチェルノブイリに行くべきだ」と熱心にすすめてくださった。当時のチェルノブイリに関する情報は、玉石混交で、真偽がわからず、マスコミも混乱した状況だった。しかし、サハロフ博士の助言で、私のチェルノブイリ事故のイメージはしっかりしたものになり、「チェルノブイリに行こう」と心を決めた。博士は、広島原爆の経験は、チェルノブイリの住民の心につながっており、取材通じて、お互いが何らかの共通項を発見したり、学びあえるだろうと励ましてくださった。博士は、対談を終え、帰国し、残念ながらその直後、突然亡くなった。私は二度とサハロフ先生の助言を得ることはできなくなったが、チェルノブイリ取材で悩む時、サハロフ先生の助言がよみがえり、僕を導いてくれたことを本当に感謝している。広島でお会いした時、サハロフ先生のそばで、静かに微笑んでいた奥様のエレーナさんは、22年後の今年、88歳の人生を閉じられた。お二人はともに人権活動に人生をささげ、激動の中で幕を閉じたが、今は仲良くモスクワの墓地に眠っている。ご冥福を心からお祈りしたい。

(追記)

  • サハロフ先生と初めて話を交わしたのは、広島のあるビルのトイレの中。男性用の便器の前での立ち話だった。私は「日本にはツレションという言葉があり、男同志が仲良くなる儀式のようなものだ」と説明したら、博士は楽しそうに話をはじめ、30分もの時間を割いてくれた。
  • サハロフ先生とは実は死後ももう一度お会いした。わたしがNHKスペシャル「驚異の小宇宙人体2脳と心」の取材をするためにモスクワを訪れた時、モスクワの脳研究所に天才たちの脳が保存されており、なんとサハロフ先生の脳も並んでいた。研究者の促しで、サハロフ先生の脳のサンプルを手にしたが、感無量で、不思議な再開に涙が流れたことを覚えている。
  • 忘れられないエピソード2「汚染地帯の村の地鳥卵とキノコの歓迎会」

・チェルノブイリ汚染地帯の取材は、通算数回、延べ半年ほどに及ぶ。高濃度汚染地帯で宿をとったり、車の中で寝たりしたこともある。当時のソ連は、経済破綻しており、都市でもなかなか、日用品や食べ物が手に入らない。夜の食事でも午前中にアポを取らなければレストランで食事にありつけないこともあった。ましてや汚染地帯の町や村での食事は大変で、日本から持ち込んだインスタントラーメンがごちそうだった。そんな中、取材先の村で僕たち取材班の歓迎会をやってくれることになった。行ってみると村民が集まり、テーブル上にごちそうがずらりと並んでいる。ロシア風の揚げ物や、サラダ、卵料理、肉のようなものまで並んでいた。テーブルの中央に座っている村長さんがウオッカで乾杯の音頭を取ったのち、あいさつした。

「今日は日本から大切な客人が来た。村を挙げてもてなしたい。土地の伝統料理。堪能していただきたい!」

両手を大きく広げ、ロシア風の少し大げさなアクションで、めしあがれと促した。

「ありがとうございます!とてもおいしそうですね!」とうれしい気持ちを表現したが、実は、私たちは最初から少しためらっていた。その村が、放射能汚染地帯のひとつだったからだ。取材で歓迎の意を伝えられ、招待されたのはありがたいのだが、正直言って困っていた。しかもよく見ると、テーブルに並んでいる地鶏の卵やキノコは、放射能が濃縮されやすい、危険な食材ではないか。しかし少し時間がたち、ウオッカがまわってきたこともあり、もういいやとばかり食事に手を付けた。食べてみるとどれも美味で、素晴らしい料理だった。地鶏の卵もキノコのサラダもうまかった。村長はそんな私たちの姿をしばらく見て、おもむろに口を開いた。

「室山さん。今日の食材は除染された土地のものばかりです。心配ないよ」

食事が始まって今頃言っても遅すぎるぞと思ったが、その後考えてみると、村長さんは、私たちが信頼できる人間かどうかを試していたのかもしれない。それが証拠に、食事に手を付けたのち、いろいろな資料が次々に出てきて、チェルノブイリ事故の裏側や汚染地帯の現状を詳しく教えてくれた。秘密文書のようなものもあり、特ダネに「やったぞ」と思ったが、複雑な気持ちになった。自分が、思惑で動く、少し汚いジャーナリストだと、心の中に苦い味が広がった。

 

  • 忘れられないエピソード3「避難村の村長さんの最後の一言」
  • 私は、はじめて汚染地帯に立ったときの気持ちを忘れることができない。特に、チェルノブイリ原発から30キロの、住民がすべて避難した「ゾーン」の中は、美しかった。透明な空気、青い湖、川、草原地帯、青空をゆっくりと飛ぶコウノトリ、鮮やかな麦畑をうねらせながら風が通り過ぎていく。まるで童話の世界を絵にしたような風景。しかし住民はいない。汚染勧告で全員が避難したため、生活の様子を残したまま、人間だけがすっぽりと消えている。不気味なほどの静寂。遠くに事故を起こした4号炉がシルエットで見える。「色もなければにおいもしない」放射能汚染の現場---。
風景が美しければ美しいほど、それに比例して、五感ではわからない放射能汚染が、恐怖感を増幅させた。

  • 汚染地帯で、問題がさらに深刻化したのは、事故から4年目だった。事故直後、原発から周囲30キロ以内は立ち入り禁止ゾーンとして無人化したが、ゾーンの外は放射能汚染がなく、立ち退きの必要がないエリアとされていた。しかし、事故の4年後、チェルノブイリ原発から放出された放射性物質が、予測不能の気流に乗り、「ゾーン」をはるかに越えた北方のベラルーシ共和国に、大量に降り注いでいたことが分かった。所々に、「ホットスポット」(超高濃度汚染地域)ができており、住民は大パニックに陥った。「水」が集まる場所は穀倉地帯であり、結果的に自然の恵みのメカニズムが裏目となった。公表されていた放射能汚染地図も、根本的に書き換えなければならない最悪の事態であった。私たちは、やがて、そのベラルーシにカメラを入れた。ベラルーシの村々の畑には、たわわに実った麦が、汚染のため収穫されないまま放置されていた。すでに住民避難が始まっており、歯が抜けるように住民が減り始めていた。避難は赤ちゃんをもつ若い夫婦から始まった。若い人が集まる店がつぶれ、学校が消え、共同体が機能を失いつつあった。老人と一緒に住む大家族では、若夫婦だけが子供を連れて逃げた。「老人たちは見知らぬ新しい場所に逃げるより、村に残ることを望んだ。」と役場の人は説明したが、実際は、老人とともに新しい人生を始める経済的余裕がなく、「現代の姥捨て山」とでもいえる状況が起きていた。老人たちは、行く当ても、生活のすべもないまま放置された。
放射能汚染が村人や家族の絆を引き裂き、崩壊させ始めていた。その近くに、住民全員を引き連れて、知人のいる場所へ避難する決意をした小さな村の村長がいた。奇妙なことに、その村は汚染レベルとしては国が定める基準値以下の村だった。「逃げる必要がないのになぜ避難するのか?」
私の問いに村長は答えた。「たしかに放射能は遺伝子DNAを傷つけ、人体にダメージを与える。しかし傷つくものはもうひとつある。それは心だ。汚染地帯にいると、たとえ汚染レベルが低くても、共同体が壊れ、人の絆がずたずたに切れていく。そこでは体は生きても、心が死んでしまう。「心が死ぬ場所」に、人間が暮らすことはできない。」村長の言葉が私の心に突き刺さった。私のディレクター人生で、忘れられない言葉の一つとなった。東京に帰って私は考えた。人間が人間として生きていくとはどういうことなのだろうか。科学番組をやっていると、人間を精密な機械として見、物理的ものさしだけで判断をする癖がついてくる。健康上安全な場所から「気分だけで」避難する人をまるで愚か者のように感じてくる。しかし人間には、生物的(物理的)存在としての側面のほかに、社会的、文化的存在としての側面がある。「人はパンのみでは生きない」。この当たり前のことを私たちはすぐに忘れ、無慈悲なシステムを作り上げてはこなかっただろうか。人間の顕在意識だけを尊重し、その底流にある潜在意識の世界を忘れてはいないだろうか。形あるものだけを信じてはいないだろうか。形のないものに内在する価値を忘れ去ってはいないだろうか。
チェルノブイリで私は、被曝には「体の被曝」と「心の被曝」があることを知った。

 

 

  • エピソード4「汚染地帯の原爆の味」

・チェルノブイリの汚染地帯のロケで、ブラギンという高濃度汚染地帯の村に行った。ブラギンは30キロゾーン周辺でも特に汚染が激しい村で、膨大な除染剤がまかれているとはいえ、長居すると危険だった。その日は特に暑い日で、風も強く、車の外は巻き上がったほこりがすぐに車の窓にたまってしまうほどだった。お年を召した岡野博士は、汚染地帯のどこにいても泰然自若として、放射線をそんなに恐れなくてもよいと、私たちを静かに諭していたが、その日は違った。なんと草むらに入った時、ものすごい勢いで逃げだしたのだ。一瞬、先生の「逃げなさい」という小さな声が聞こえたが、気が付いたら岡野先生の姿はなかった。お年寄りで威厳ある科学者が、砂煙をあげながら全力疾走で逃げる後ろ姿は、今思い出しても身の毛もよだつ風景だ。草むらは、放射能がたまる表面積も大きく、水が集中することではホットスポットになりやすく、かつ除染しにくいため、汚染地帯でも注意が必要な場所。しかし、岡野先生の行動で、本当に怖いのだということを身に染みて感じ、以後あまり入らなくなった。もう一つの体験は、少し不思議な体験。砂煙が上がる中に、車から降りて、ロケを始めた時、突然私の口の中に、鉛のような金属の味が広がった。乾電池の電極をなめると口がしびれるような味がするが、あれとよく似た感じで、やがて口の中と舌がしびれ始めた。なんだこれはと思って車に逃げ込むと、同行している通訳の人も同じ現象になっていた。しかしその体験を感じたのは、私と2人だけで、ほかのスタッフは何も感じなかったという。私は当時広島放送局のディレクターで、同僚から「原爆を投下したエノラゲイの乗組員が、投下のあと口の中で金属の味がしたらしい」という話を聞いていたので、それと関係あるのかと不思議に思った。スリーマイルでも同じような現象があったと聞いたことがあるが、チェルノブイリの汚染地帯で感じた、あの「原爆の味」はいったいなんだったのだろうか?

 

  • エピソード5「涙でかすんだ空から見た4号炉」

・ロケをしていて、そのシーンが脳裏に焼きついて、ずっと忘れられないことがある。私は上空から見た事故後の4号炉の光景を忘れることができない。事故から3年後、私は西側クルーで初めて、軍のヘリコプターを借りて、上空からチェルノブイリ原発4号炉を撮影した。見渡す限りの豊かな自然。ところどころに湖や、青く光るうねる川も見える。しかし原発に近づくにつれ、緑は減り、人間が掘り返した土地が増え、赤茶けた感じになってくる。4号炉周辺は、まるで櫛をひっかいたようにむき出しの土地が広がり、忙しく除染作業にあたるトラックや重機が見える。その中心に、黒鉛色の4号炉の石棺がある。まるで4号炉が波紋の中心にあり、そこに石を落したように、周囲に不幸の波紋が広がったような風景。その悲劇の中心に人間がいることを証明するような風景。それを見つめてわたしは、わけもなく悲しい気持ちになり、涙があふれ、止まらなくなった。「ついにやってしまった」人間の所業を感じ、怒りやおそれではない虚無的な気分だった。涙の向こうに、4号炉がゆらゆらと揺れて見えた。あの時見た水中に没したようなチェルノブイリ原発4号炉の姿は、そのまま私の心象風景になり、脳の奥深くに刻み付けられたように思う。

  • ジャーナリズムは何を伝えるべきか
  • 人類はこれからどんな文明を作り上げていくのだろうか?ホモサピエンスが誕生したのは今から15万年前。巨大な脳を持ち、2足歩行し、脳内にイメージを浮かべ、言葉や記号化した情報をいくつもの階層に練り上げ、脳内世界を外在化し、文明を築いてきた。「ものを作る」能力を持つため、地球上の資源や素材を使って、自らの安全や快楽を実現するための道具、機械、都市を作り、自らを家畜化して生き延び、地球上の144万種の種を席巻してきた。今、自らの遺伝子の仕組みを操作し、脳とコンピュータを接続して能力を拡大する科学を手に入れ、宇宙の原理を使って膨大なエネルギーを手に入れた。この流れをどう見るか。大進化に向かう人間の栄光だとみる人もいれば、生物としての存在の危機とみる人もいる。その作業の果てに手に入れた一つの成果物が原子力エネルギーだったともいえる。しかし、その原子力エネルギーを人類はまだ、思うように操ることができない。チェルノブイリ原発事故や福島第一原発事故は、そのような人類のありようを映す鏡ではなかろうか。そこに自らの姿を映し、今後の進化のありようを、しっかりと自らに問うことが、今ほど必要なときはないように思えて仕方がない。ジャーナリズムの仕事は、「今がいつか、ここはどこか、我々は何者で、どこに向かおうとしているのか」を鳥瞰し、そのプロセスに現れる様々な問題や課題をいち早く伝えることだと思うが、その仕事を私たちはきちんと実践しているだろうか?表面の現象のみに汲々として、その底部に流れる巨大な流れを見失っていないだろうか?原発事故の向こうに文明のありようを見ぬいているだろうか?日本のジャーナリズムに一端に籍を置くものとして、その責任をきちんと果たすための努力を、続けなければならないと、最近しみじみと思う。

 

 

 

 

 

 

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「どうせ死ぬのにどうして生きてるの?」

室山哲也:昔の作文図書館
 
「どうせ死ぬのにどうして生きてるの?」
 
子供を育てていると教えられることが多い。ずいぶん前、まだ3人の子供が幼かった頃、我が家のペットのウサギ(フラッフィー・ボナパルト・ムロヤマ)が突然死する事故が起きた。予想外の暑い夏が続き、熱中症で、見ている前で息を引き取った。世話係の長男は大変なショックを受け、自分を責め、何日か話をしなくなった。数日後、少し元気になった彼が、思いつめた顔で、私に質問してきた。「生き物はみんな死ぬのか?」私はその質問に少し驚いたが次のように答えた。「生き物はみんな死ぬ(正確には死のプログラムは有性生殖の引き換えだという説がある)。人間も全員死ぬ。キリスト様も、お釈迦様も死んだ。死亡率は100%だ。」「パパやママも、自分も死ぬのか?」(息子)「みんな死ぬ。生まれる前にいたところに戻るのだから、余り心配しなくてもいい」(私)。長男は少し考え込み、さらに質問してきた「どうせ死ぬのにどうして生きているの?」。
私はこの質問に絶句し、しばらく言葉が出なかったが、親の沽券もあり、次のように答えた。「大輔(長男)はお小遣いをもらっているね。どうせ使うのだから、もういらないよね?」あわてて長男は否定し、お小遣いは必要だと主張した。・・私は何とか苦境を切り抜け、長男の追及を逃れたが、実を言うと苦し紛れの回答だった。
この質問は、すごい質問だ。そうだよなあ。何でだろうなあ。生きるってどういうことなのかなあ。。そのあと少し考えてみたが、巨大で本質的すぎてとても分からない。正直言って、いまだに分からない。もう一度聞かれたらなんと答えればいいのだろうか。
私はNHK教育テレビで「科学大好き土よう塾」という、子供向けの科学番組を5年間やったが、子供の質問に窮したことは何度もある。「空はなぜ青い?」から始まって「地上には何故たくさんの生き物がいるのか?」「宇宙の果てはどうなっているのか?」など、私たちが子供の頃感じたのと同じ質問に出会う。しかし私たち大人は、そのような素朴な疑問や驚きを、いつしか忘れ、「分かった」ふりをして、その場をごまかし続けることが多い。青空や星空を見上げて感動したり、海の波の向こうに思いをめぐらす時間は、日常的にほとんどない。
私がNHKに入局したとき、報道番組の神様と呼ばれるプロデューサーに、番組つくりの秘訣を質問したことがある。答えは「高度な平凡性」というものだった。ジャーナリストの大敵は「分かったふり」。子供のような素朴な質問ほど、鋭く本質をえぐることを教えたかったのだろう。
子供から学ぶことは多い。私たちはどこまで「あの心」を思い出せるだろうか。心の曇りをもっと取り払わなければならない。
(NHK解説委員 室山哲也)

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異文化衝突の青春

室山哲也:昔の作文図書館

 

異文化衝突の青春

(第23期生 室山哲也:NHK解説主幹)

 

あこがれの早稲田大学に入学し、キャンパス内で私がはじめて見たものは、ヘルメット姿の「核マル」や「中核」の学生を、ジュラルミンの楯を片手に追いかける機動隊の恐ろしげな姿でした。学生たちは走りながら石を投げつけ、クモの子を散らすように逃げています。

「なんじゃこりゃ!こんな風景見たことない!」

私は愕然としました。倉敷青陵までの18年間、私は過激派の学生も、機動隊も見たことがありませんでした。しかし、当時の早稲田大学にはまだ大学紛争の名残があり、内ゲバで学生が構内で死亡するという事件まで起きる状況が続いていたのです。

私はなんだか無性にハラが立ってきました。そして、よせばいいのに、核マルの学生たちの巣窟といわれる部屋に抗議に行きました。

「君たちは同じ学生なのに、なぜ大学内で暴力を振るうのか」「なぜ歩み寄って解決しようとしないのか」・・

田舎もののウブな私は、ぞろぞろと出てきた10人近い核マルに取り巻かれ、当時の青春ドラマのような安っぽいせりふを吐きました。

私の抗議は34時間続きました。

私は制服と寮歌と野球が大好きな、社会のことにはほとんど無知な純朴な田舎学生。話せば分かる。やれば出来る。人間みんな友達だ。さあいっしょに浜辺を走ろうじゃないか。という単純な思想の持ち主でした。

日本人なら、きっと分かってくれる。肩を組んで涙してくれる。そんな根拠のない幻想を持っていました。

しかし、そこでの議論で分かったのは、同じ日本人なのに、話してもわからないやつがいる。議論が通じないやつがいる。そしてどうやら私よりも知識豊富で頭がよさそうだということでした。

まるで、吉本新喜劇のようなあほらしい結末。

私の18年の哲学は音を立てて崩れ、以後2年間、私はノイローゼとなり、ほとんど話もせず、心身症のような毎日を送る学生になりました。

この世の中で真実とはなにか。本当の倫理や哲学とはどういうものか。それを知りたくて、連日連夜あちこちの宗教団体や、政治団体、教育機関を訪問し、質問し、議論しました。しかしどこにも満足できる答えはなく、私は次第に孤立し、実存主義の本を読み漁る、さらに暗い学生となっていったのです。。

今思い起こすと、当時の私は、「異文化衝突」によって、自分の信念や自我がこわれ、心を閉ざした状況におちいったわけです。

その後、私には何度かの激動の事件があり、私はいつしか、「現代ジャーナリズム研究会」という部をつくり、日本のあちこちをルポルタージュの旅をする学生に変身したのです。

あれから35年。

何の因果か、私はいまジャーナリストになっています。

何百かの番組を作るために、冬の北極にも、夏の赤道にも、事故直後のチェルノブイリ原発にも行きました。多重人格の患者と生活したり、断食行者と共に10日間山にもこもりました。私の目で確かめ、自分の手で触り、自分で考え、自分の言葉で表現することが大好きになってしまいました。

この変身振りは何なのか。自分でも謎です。

しかし今、私は、あの若かった頃、異文化衝突で自分がペッチャンコになってしまったおかげで、今の自分があるような気がしてしようがありません。

たしかにみっともない青春でしたが、その悲喜劇の中で、異質なものとのぶつかり方、議論の仕方、調整の仕方、融合の仕方といった、人生の基本をはじめて学べたのかもしれません。

「人生にゃ、なんも無駄なもんはねえもんじゃのう」

最近わたしは、よくそう思います。

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