執筆活動

「テレビの科学報道、科学番組を考える」朝日新聞ジャーナリズム2014年8月号

NHK解説委員 室山哲也

 文科系青年、科学番組ディレクターに変身 

 今から35年前の初夏、うら若き25歳の青年(私)が、宮崎県の青島の浜で遊んでいたら、スピーカーからアナウンスが流れた。「NHKのムロヤマ様、NHKのムロヤマ様、至急局長までお電話ください!」せっかく休暇をとって友人と楽しい時間を過ごしているのに、いったい何だろうと、職場に電話をかけてみると、「お前、今どこにいるんだ?」といつもの局長のぶっきらぼうな声。「青島で遊んでます」「すぐ帰って来い。東京に異動が決まった。」とのこと。「え?今年はなかったんでは?」「俺もわからないが、とにかく帰って来い」。遊んでいたアロハシャツと砂のついたサンダルのまま、あたふたと局長室に駆けつけると、「異動先は、東京の科学番組だそうだ」と教えてくれた。「科学番組?僕が?なんで?ほんとですか?」と素っ頓狂に問う私に、局長は無表情にうなづくだけ。これはえらいことになった。しかしホントなのだろうか?僕は、とにかく科学嫌い。宮崎のローカル放送で作っていた番組は、少年非行や教育問題、地域に生きる老人の番組や、瞽女ごぜのドキュメンタリーなど、ほとんど教養系、報道系の番組ばかり。大学時代の専門も法律で、物理や数学は全く点が取れない典型的な「文科系青年」だったのだ。田舎の岡山に住む父親に電話で報告すると「哲也、よく聞け。人生には落ち着かなければならない時が時々ある。今がその時だ。お前が科学番組のわけがない。その情報はきっと間違いだから、今から東京の人事に電話して確認してみなさい」とのアドバイス。さっそく東京に電話してみると、やけに軽い声の人事担当者が出てきた。「え?宮崎のムロヤマさん?ちょっと待ってくださいね。リスト見てみますから。ええと、室山、室山・・と。あ、ありますよお。教養科学番組部です」ええ!と驚く私。一体東京で何が起きているのだろうか。

 東京に行ってみて、事情が分かった。当時NHKにはHさんという名物プロデューサーがいた。その人は以前鹿児島で漁師をした経歴を持つ、NHK科学番組の大プロデューサー。サイエンスヒューマンドキュメンタリーで名作を連打し、数々の国際賞を総なめにした人物だ。どうもその人が私を呼んだらしい。担当番組は「ウルトラアイ」。現在放送中の「ためしてガッテン」の源流(当時は30%の視聴率を誇っていた!)で、エンターティンメント性満載の生活科学番組だ。「これなら芸能的要素が強いから、僕にでもできるかも・・」と思っていた矢先、最初は1年間、45分の教育テレビを担当してもらうとのご託宣がおりた。最初の番組のテーマは「遺伝子」だった。さっそく明日先生に取材してこいと命令され、私は、おっかなびっくり、初めての科学番組の取材に赴いた。

 伺ったのは、三菱化学生命科学研究所。生命科学の権威、中村桂子先生が私を待っていた。噂通りの聡明で美しい科学者だった。学生の雰囲気横溢で、髪はぼさぼさ、まるで山から下りてきたばかりの風采の私を見て、ニコッと微笑み、「何でも聞いていいわよ」と言ってくださった。うれしくなった私は、「では先生。最初の質問ですが、遺伝子って何ですか?」。先生はちょっと困った顔をして、「室山君は人間?」と聞いてきた。まるで子ども扱いだ。「室山君が知っている生き物ってどんなのがいる?」私はむっとして「いろいろ知ってますよ。犬、猫、サル・・そうだサボテンも、桜も、アメーバーだって生き物です!」(当時の私の生物の概念は、この程度の驚くべき大雑把な状況だった)「今あげた生き物は地球型生物といって、どれも遺伝子DNAを持ってます。遺伝子っていうのは、体の設計図ね。」「DNAは塩基という4つの物質でできていて、不思議なことに地球上の生き物は皆同じ塩基の組み合わせなの。なぜだかわかる?」「わかりません」「もとをただせば同じ生き物だったということです」私は驚愕した。「ええ!犬も、サルも、植物も人間も、先祖は同じということですか!?」「その通り!」。人間27年。NHKディレクター人生5年。私のそれまでの人生で、最も驚きに満ちた話だった。衝撃のあまり少し考え込んだのち、再び先生に聞いた。「あのー、僕の爺ちゃんが、死ぬ前よく、「木には木の神様が、石には石の神様が、獣には獣の神様がいて、みんなつながっている」って言ってましたが、それと同じことですかね?」先生は少し困った顔をして、「まあ、そんなふうに考えてもいいわね」と答えてくれた。その瞬間、私のもやもやが吹っ飛び、目の前に青空が開けた。「それなら、僕、遺伝子分かる気がします!」

 私の、科学番組の初めての取材はこうして終わった。もちろん局に帰って、先輩から「事前勉強もせず、先生に乱暴な質問をするとは何事か!」とこっぴどく叱られたが、私の表情は明るかった。「科学は面白い!」なんだか知らないことばかりで気持ちがわくわくする。この世界こそ、私が求めていたものだ!とまで感動していた。もしもあの時、中村先生から無礼さを叱られたり、無知を馬鹿にされていたら、きっとその後の私はなかったろう。あの一言が私を救い、文科系の私の脳に科学の息吹を吹き込んでくれたのだ。私の人生の記憶が「科学」というキーワードによって繋がり、大きく「認識」という船の進路が変わったのだ。こうして「文科系出身の科学ディレクター」「文科系の科学解説委員」という、奇妙なNHK職員が誕生した。

 

 テレビ局の2つの人種

 この文章のタイトルは「テレビの科学報道、科学番組を考える」だが、テレビ局には2種類の人種が存在する。「記者」と「ディレクター」だ。よく「記者は狩猟民族、ディレクターは農耕民族」といわれる。記者は、社会的事件や事象が起きたとき、速攻で取材し、その状況や内容をいち早くニュースとして伝える任務を負う。これに対してディレクターは、取材はするが、ニュース担当の時以外は、取材で取り込んだ種をまいて育て、花や実を刈り取る農耕民族的な側面がある。記者の報道は今の1秒を争うが、ディレクターの世界では「100年単位のジャーナリズム」もありうる。したがって、放送局において、この両者が科学報道をするとき、内容のあらわれ方に、大きな差が出てくることになる。特にテレビの場合「映像」が大きな要素としてからんでくるので、新聞社に比べ、情報提供の様相がさらに複雑になる。また、科学の世界の物事をそのまま伝える情報番組的なもの以外に、「科学的視点」で日常的な対象に迫ったり、ドキュメンタリーやエンターティンメントに仕立てていくものもあるので、一概に「科学番組」といってもいろいろな種類が存在することになる。

 

●求められている科学番組とは何か?

 では、ディレクターが作る「番組」とはどんなものか?一つの例を挙げてみよう。例えばある村に、どの建物よりも高い塔ができたとする。それを放送するとき、普通のニュースなら、「一番高い」ことを強調するために、まずカメラをパン(横方向にずらす)しながら、家々の屋根をなめていき、そののち、にょきっと屹立する塔の姿を見せるだろう。カメラを下に設置して仰角で撮影し、青空を背景に、堂々とそびえる塔の姿を表現するかもしれない。しかし、長めの番組を企画するとしたら、もう一つの切り口がある。それは、村一番の高い視点からながめたとき、いったい何が見えるかということだ。村一番の高みに立てば、今まで村人が見たことがない風景が展開しているに違いない。今まで村人が知っていた周りの森や川が、違うふうに見えるかもしれない。ひょっとしたら、思いがけないことが発見されるかもしれない。今までの「認識」そのものを変えることすらあるかもしれない。このように、「初めての高み」が生み出す情報や価値にとことんこだわるのが、番組を作る時の特徴なのである。歴史の中にも似たエピソードがある。1906年、ヨーロッパではじめて、サントスデュモンが飛行に成功した時、英国のある新聞は「200mを20秒で飛んだ」ことを伝える記事を書いた。ところがこの記事を読んだ、英国の新聞王ノースクリフ卿が激怒。「20020秒がニュースではなく、英国が島国でなくなったことがニュースなのだ」と編集長を叱った逸話がある。この発想は、番組作りをするディレクターとよく似ている。「科学番組」に重要なことは、ある新しいニュースを即物的に伝えること以上に、新しい方法論や視点を頼りに、新しい風景、新しい価値、新しい世界観を探り出し、新しい物語を発見しようとすることなのだということを、思い起こさせる話だと思う。

 

 映像にしかできないこと、文字でしか表せないこと

 月探査機「かぐや」が、NHKのハイビジョンを搭載して月面を撮影し、映像を地球に送ってきたとき、ある著名な天文学者が、私にこう言った。「室山さん。わたしは天文学者なので、送ってくる情報については全て知っていました。けれども、知ってはいたけど、見て、本当にびっくりしました!」私は、この言葉を聞いた時、とてもうれしく、テレビマンとして「万歳!」を唱えたい衝動に駆られた。この言葉は、テレビマンへの最高の賞賛である。映像には、単に文字や情報に置き換えても、どうしても表現しきれない、何かもっと豊かな、奥深いものが含まれていることを示すエピソードなのではなかろうか。

 ジャーナリストは、取材するとき、まず、目の前で展開している事実を出来るだけ多面的に見つめ、検証し、その背後にあるものを探りながら、視聴者や読者に、文字や映像を使って、その内容を伝達していく。新聞記事の場合、記者は、文字を使ってその内容を構築し、事実のディテールや意味を伝えていく。このとき使う「文字」は記者の脳内に記憶として保存されており、記者は、伝える意味の最も近い言葉を選び、それを組み合わせて意味を作っていく。限られた記号で現実を伝えるため、当然限界があるわけだが、記者は、文字や言葉の限界と戦いながら、それを越えて「客観的」なニュースを構築する努力をしていくのである。一方、テレビの映像の場合、カメラの前にある状況を丸ごと画像化するため、言葉では表現しにくいディテールやニュアンスを伝えることができる。「百聞は一見に如かず」「見ると聞くでは大違い」というが、映像はうまく使うと文字ではできない強力なパワーを発揮する。しかし逆に、目の前のものしか映せないという弱点があるため、たいして熟考せず、その威力に甘えて、「伝えていく努力」を怠った時、表面的で薄っぺらの、見るからにみすぼらしいリポートになってしまう場合もある。優れた記者がいったんペンを握り、その奥の本質にまで食い込んでいく表現には、テレビは到底及ばない。しかし、映像のパワーを、真の意味で味方につければ、新聞にはできない世界を作り上げることができる。結局、メディアによって、長所短所があるという当然の結論になるのだが、今後は、それぞれに内在する落とし穴にはまらず、長所を合わせて、文字と映像の相乗効果で、より豊かな、新しいメディアを育てていくことが重要だといえるのだろう。

 

 東日本大震災がもたらしたもの

 3年前の311日は日本人なら忘れることができない日だ。私はあの時、休日で練馬の自宅にいたが、今まで体験したことのない長時間の揺れに心底恐怖を感じた。日本は、世界の61位の陸地面積の小国だが、世界の地震の2割が、列島周辺で起きている「地震列島」なのだというが、その事実を改めて実感した。そしてその後、あの福島第一原発事故が起きた。テレビ画面で、原発から立ち上る煙を見たとき、私の背筋を、冷たく痛みを伴った電流が走った。「うそだろ」と、何度もつぶやきながら、夢であってほしいと念じた。しかしそれは現実だった。その後、解説委員だった私は、「災害弱者をどう守るか」「放射能汚染にどう向き合うか」「低線量被ばく問題」などの解説を続けたが、やがて、日本のエネルギーをどうすべきかといった点に重心を移していった。それは、私の、ある個人的反省から決めた選択でもあった。

 全く恥ずかしい話だが、実は、東日本大震災以前、東京の電気がどこからどのようにきているかには、ほとんど無頓着だった。新宿のネオンの海で酒を飲んでいる時も、その電力が福島原発によって支えられているという自覚がなかった。「電気はどこかで誰かがつくり、無尽蔵に提供されるもの」「私使う人」「あなた作る人」といったおそまつな認識だったのだ。ところがいったん事故が起きると、大都市東京はたちまちマヒし、日本全体が震撼する混乱に陥った。日本を支えるエネルギー構造は、大規模な電力生産と大規模な電力消費がネットワークでつながれ、心理的に分断されたまま、ある意味差別的に固定化されていたのだ。それに気づいた。そして、そういう国の、災害やリスクに対する脆さや無責任さも強く感じた。そんなこともあり、その後、私は、自分の解説テーマを、原発事故そのものからエネルギー問題にシフトし、地域を支える「分散型エネルギー」や「再生可能エネルギー」のあり方のついて考えることが多くなっていった。

 東日本大震災と原発事故は、その後3年にわたり、日本を苦しめ、科学者の在り方、ジャーナリズムの在り方、市民の在り方、政治のあり方、社会システムの在り方を、深く問い詰め、今も問題提起をし続けることとなった。

 

 チェルノブイリ取材から学んだこと

 福島原発事故を目の当たりにしながら、私の脳裏によみがえったのは1986年に起きたチェルノブイリ原発事故だった。私は事故直後から延べ10年間、NHKスペシャル5本の制作に携わり、解説委員になってからも、折に触れて事故について解説していたが、時が経つにつれて、いつしかその経験は、はるか昔のことのように、沈殿した記憶になっていきつつあった。けれども、福島原発事故は、そのチェルノブイリの記憶を、ありありと私に思い起こさせたのだった。

 私はディレクターとして、チェルノブイリ事故直後以降、2年目、3年目、4年目、10年目と現地に入り、取材、ロケに携わった。2年目からは、ウクライナや立ち入り禁止になっている30キロゾーン、周辺の高濃度汚染地帯、4号炉周辺、そして内部と取材範囲を広げ、4年目には、新たに発表された汚染地図で混乱するベラルーシにもカメラを入れた。汚染地帯が広がる現地では、各国のジャーナリストや、日本の新聞記者とも出会った。チェルノブイリ原発周辺の自然は美しい。森林の鮮やかな緑と青空、豊かな湿原や好き通った水流、ゆっくりと弧を描いて飛ぶ鳥の群れ。何も知らずに現場に立つと、まさかそこが放射能汚染の只中だということには気が付かないような風景だった。しかし、村には人影が見えず、原発事故で放出されたおびただしい放射性物質が、目に見えない形で環境を汚染し、人々を恐怖に陥れ、混乱を引き起こしていた。「色もなければ匂いもしない」放射性物質の特性が、人々の不安や混乱を増幅し、問題をさらに複雑なものにしていた。

 実は、一つ告白しなければならないことがある。それは、当時の私は、原発事故は「ソ連」という特殊な国だから起きたと思っていたことだ。もちろんアメリカのスリーマイル事故のことも知ってはいたが、取材をすればするほど、社会主義というシステムと原発事故が結び付き、事故そのものが政治的な構図の中で起きたものに見えていた。この印象は、私だけでなく、現地で会ったジャーナリストたちも、おそらく同じではなかったろうか。「チェルノブイリ事故はソ連という、「遅れた特殊な」国だからこそ起きた」「日本では(炉のタイプも違うし)このような事故は起きない」「なぜなら、日本は成熟した民主主義国家。情報社会でもあり、高度な技術力をもった先進国。チェルノブイリのようなことが起きるわけがない」そう思っていたのだ。しかし、その思い込みは、福島原発事故を目撃した時、見事に粉砕され、私は現実に目覚めた。その日本で、このような事故が起きたのだ。

 原発を持ち、運用することができる資格を持つ国は、どういう国なのだろうか?私が取材でたどり着いたイメージは、「原発技術を熟知し、放射性物質のリスク管理ができる国」「気象学に明るく」「先進的な情報システムを持ち」「危険物を運搬できる交通環境を持ち」「政府の危機管理能力があり」「国民の理解があり」それらすべてを支える「民主主義が成熟している」というものだ。このものさしから見て、当時のソ連は問題が山積していた。しかし、日本も、結局、そのものさしから見て問題がある国だったということになる。放射能汚染地図をつくるプロセスの混乱、遅れた避難命令、安全基準への住民の不信、風評被害、住民同士の利害対立と確執、そして科学者への不信感・・。日本でも、チェルノブイリで見た同じような光景がいたるところで展開し、科学技術立国日本の基盤は、大きく揺らいでしまった。

 チェルノブイリの取材で、ある印象的な人々がいた。その村はあわただしく住民避難の準備をしていた。村長に聞くと明日、村人と共に避難するという。しかし汚染地図をみると、その村の汚染程度は、それほどではなく、避難しなくても、住み続けることができる数値だった。私は村長にそのことを伝えた。「この村は避難するほど汚れていません。なぜ避難するのですか?」すると村長は答えた。「数値は私も知っている。しかし、体は生きていけるかもしれないけれど、ここにいたら、心が死んでしまう」。この言葉は私にとって衝撃的だった。なぜ村長はそんなことを言うのだろうか?私は、その後、汚染地帯のロケを続けるうちに、次第にその意味が分かってきた。ある村でこんな光景を見た。その村は村民全員の避難ではなく、赤ちゃんや子供のいる家族のみ避難する選択をしていた。しかし、子供がいなくなると、学校が消え、若い夫婦が集まる集会所が消え、買い物ができるスーパーのような店も次第に少なくなっていく。村はやがて火が消えるように、次第に勢いを失い、全体がマヒするように活動を止め、やがては共同体としての機能も失っていく。村に残る老人たちはかろうじて生活を続けてはいるが、世代を超えた会話と夢が消えたために、地域を支えてきた人間のきずなが分断され、共同体が崩壊していく。放射能汚染は、このように、有形無形に人々の心に入り込み、「共に生きる形」を変質させていくのだ。放射能は、体の中だけではなく、心の中にも侵入して、地域を蝕む。私は、村人を引き連れて逃げる村長に対して不思議な共感を覚えた。そして放射能による被ばくには「体の被ばく」と「心の被ばく」があることを知った。

 

 プロセスカット文明を乗り越えよう

 科学報道、とりわけ科学番組の使命とは何だろうか?それは視聴者(読者)に、因果関係を見抜く「科学の目」や、自ら推論して考えることの大切さを伝えることではないだろうか?そして考える楽しみとともに、優れた未来型市民になる道筋を共有することではないだろうか?そうすれば、私たち市民は、日々あふれるばかりの情報に接しても、価値の濃淡を見抜き、自ら考え、判断することができるようになるかもしれない。与えられた情報をうのみにせず、それが生まれた背景や過程を見つめ、因果の中で情報が生まれることを、もっと理解できるようになるかもしれない。日本のロケット開発の父といわれる糸川英夫さんの著作に、「現代文明はプロセスカット文明」だという記述があった。例えば、初期のテレビではチャンネルを変えるとき、わざわざテレビまで人が行って、手動でつまみを回したものだが、いまではほぼすべてのテレビが、遠くからリモコンでボタンを押すだけでできる。エレベーターやエスカレーターを使えば、階段を上るプロセスをカットして、私たちはボタン一つで移動可能。私たち文明人は、辛いプロセスをカットして、「目的」や「結果」を、安易に手に入れたがりすぎるというのだ。情報の世界でも同じ現象が起きている。テレビ番組では、まず結果がどうなのかにこだわる。その経過にはあまり興味を示さない傾向がある。そして結果が分かれば、なぜか、すべてがわかったような気がしてくる。しかし、このような状況が余り続くと、市民はやがて、批判精神を失い、ただ教えられたとおりに行動する、主体性のない、危険な集団となってしまうのではないだろうか。STAP細胞報道の時も似たような危機感を感じた。研究の表面的な事象に振り回され、右往左往する世論。それをあおるように、表面的、断片的情報を垂れ流しし、物事の本質に迫らず、面白おかしくそそのかす、一部のニュースショー。マスコミは「プロセスカット」の悪い部分を拡張し、むしろ世の中をゆがめる働きをしてしまっているのではなかろうか。そもそも「科学する」とは、そのプロセスの中で格闘し、思索を重ねて、物事の本質を追い詰める態度をさしていた。「科学報道」「科学放送」に携わるジャーナリストは、視聴者や読者と共に考え、共に成長していく態度と、「科学」を守っていく責任を、肝に銘じる必要があるのではないかと思う。

 

 これからの科学報道、番組

 大きく変化する時代の中で、科学ジャーナリズムは、どのように変わり、役割を果たしていけばいいのだろうか?テレビドキュメンタリーを例にとると、昔の番組の構成は単純だった。誰か特定の人間を追いかけたり、カメラで撮影できたことで構成していけば、その物事の本質に迫ることができた。社会の構造が、まだ単純だったからかもしれない。しかし今は、私たちの五感で見聞きすることができないレベルで科学が進歩し、社会が激変している。コンピュータのようなブラックボックスで扱われる大量の情報が社会構造を変えたり、目に見えない原子の世界の研究が社会に革命を起こしたりしている。しかも地球環境問題に象徴されるように、科学的に分かった事象と、社会、経済、政治が密接に関連し、より複雑な構図で物事が進んでいる。その意味でこれからの科学報道は、単なる「科学の目」だけでは済まない状況に直面している。ある著名な動物学者が「ヒトばかり見ていると、ヒトがなんだかわからなくなる」と述べたが、これからの科学報道、科学番組は、より想像力を働かせて、ミクロ、マクロの世界を追い、ほかの分野とも連動する「複眼の目」が、さらに求められるのだろう。私は、NHKに入局した直後、ある先輩からこんなことを言われたことがある。「NHKには視聴率ゼロを目指す番組がある。」私は、この奇妙な言葉の真意を尋ねた。「視聴率は見てくれる人の数を表しているのだから、多いほうがいいのではないですか?」すると先輩が答えた。「ふつうはそうだ。しかし、たとえば、障害がある人が、自立するために見る番組がある。その番組は、自立して番組を見なくてもいい人を増やすことが目的だから、視聴率ゼロを目指していることになる」。これは、公共放送のNHKだからでてきたエピソードだろうか?確かにその面はあるかもしれない。しかし私は、ジャーナリズムに生きる仲間たちに、今、この言葉を伝えたい思いに駆られる。「公共」は言うまでもなく、国やNHKだけのものではない。広く市民全体で育てていくべき、最重要課題だといえる。科学ジャーナリストが、社会の公僕として活躍を期待されている限り、やるべき課題は山積し、日に日に増え続けているように思う。

 

 

 

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チェルノブイリ原発事故から学んだこと2012.10.10

ホデムチューク夫人との出会い

・今から21年前の春、私はNHKスペシャル「汚染地帯で何が起きているか~チェルノブイリ事故から4年」という番組制作のため、チェルノブイリの汚染地帯の長期ロケをしていた。状況は混乱し、情報は不確定で、いったい汚染地帯で何が起きているのかがさっぱりわからず、疲労困憊のロケが続いていた。「取材チーム」といっても、予算は少なく、NHKでは、ディレクターの私と、嶋田カメラマンだけ。それに同行をお願いした、元理化学研究所で、放射線科学のエキスパート岡野真治博士と、測定担当の浜松ホトニクス小池清司さんの4人。チェルノブイリ原発事故という怪物と戦うには、あまりにも虚弱な人数だった。ある夜、私たち取材チームは、うまくいかない取材に疲れ果て、ウクライナのキエフの食堂酒場で、夕食をとり、ウオッカで疲れをいやしていた。薄暗がりの洞窟のような店内のあちこちから笑い声やざわめきが聞こえ、奥のほうで婦人会の会合のようなこともやっている。たばこの煙が充満する、一見どこにでもある普通の酒場。ここがチェルノブイリ事故に揺れる最も近い都市キエフだということを忘れてしまいそうな夜だった。ウオッカでほろ酔いになり、キャベツの酢の物を口に入れていた僕に、ある中年の夫人が近づいてきた。「あなたたちは日本人ですか?」「そうですが・・」怪訝そうに振り向く僕に、夫人は続けて話しかけてきた。「通訳の人に日本の放送局の人だと聞きました。実は明日、私はなくなった主人の墓参りに行くのです」「ああ、そうですか。ご主人が亡くなられたのですか。」「一緒に行きませんか?」僕はこの不思議な夫人に少し警戒感を持ち、恐る恐る会話をしていたのだが、話が進むにつれて、ただならぬことだと感じ始めた。「ご主人のお名前は?」「ホデムチュークといいます」ホデムチューク…どこかで聞いた名前だと記憶を探って驚いた。チェルノブイリ事故の消火に当たり、炉心付近で被曝し、亡くなった人と同姓だからだ。「あのチェルノブイリのホデムチュークさん?」「そうです」僕たちはすっかり酔いから覚め、姿勢を正して話に聞き入った。ワレーリ・ホデムチューク消防士は、チェルノブイリ事故の収束作業で死亡したが、遺体そのものが強い放射線を出す状況となり、搬出できず、4号炉が事故収束のため膨大な量の鉛で埋められる時、一緒に埋められてしまった悲劇の人物である。つまり、4号炉はホデムチュークさんのお墓でもあるわけだ。ホデムチューク夫人は事故直後から、なんとか4号炉の中に入り、ご主人の供養をしたいと政府に申し出てきたが、却下され続け、事故4年目になって、やっと許されたらしい。その墓参りを明日やる。一緒に行かないかと申し出てきたのだ。私と嶋田カメラマンはすっかり酔いがさめたお互いの顔を見つめあい、どうしようかと相談した。しかし相談したところで結論は出ない。4号炉の中に入れるという期待感と、放射線への恐怖が交差し、岡野博士に相談した。博士は、うーむと考え込んだのち、「どうせ進入ルートは除染も行われているだろうし、行きましょうよ」とあっさり答えた。「ただし中にいる時間は20分としましょう。」何やら計算したのち、博士はそう答えた。事故から4年たつとはいえ、外国の取材チームが4号炉の中に入ったニュースは聞いたことがない。放射線は怖いが私たちはジャーナリスト魂に火が付き、ロケをすることに決めた。当日、入り口で炉に入るための防護服にきがえ、案内してくれる人と共に、4号炉内部に入った。中はやや薄暗い照明で、物音ひとつない。私たちは、数百メートルほど、妙に角ばって曲がりくねった通路を、右に行き、左に折れながら入っていった。まず、ホデムチューク夫人と、私と嶋田カメラマンが進み、少し遅れて、岡野先生と小池さんが続いた。極度の緊張。進入する途中でいろいろな鉄製のドアが見えるが、案内の人は「絶対あけるな」と、強い声で警告した。まだ強烈な放射線が出ている場所があるらしい。コントロールルームに入ると、事故で混乱した時の状況がそのまま残った、異様な風景が広がっていた。コントロールパネルのボタンは吹き飛んだように多くがなくなっており、巨大なビニールシートがあちこちに張られている。壁にはマジックで殴り書きされた数字やロシア語がみえる。さらに中に入る。内部につながる通路を、バラの花束を抱いたホデムチューク夫人とともに突き進んだ。防護服が暑く、次第に汗が噴き出してくる。カメラをまわし続けながら、私たちは、夫人の顔が悲しみに歪んでいくのが分かった。行き止まりには鉛色の壁があり、ホデムチューク消防士をたたえる彫り物と文字があった。その向こうに鉛とともに埋められた遺体があるということだった。夫人はバラの花束を壁のそばに置き、泣き崩れた。私はカメラのそばでストップウオッチを見ながら、時間をカウントし、20分経過!と告げていた。嶋田カメラマンは、「もうちょっと!もうちょっと!」と言いながらカメラを回し続けていたが、私は彼の背中を引きずるように撤退した。結局滞在時間は、30分間と予定を上回ってしまったが、この30分間の経験は、今でも私の脳裏に鮮やかに残っている。色もなければにおいもしない、放射線という悪魔と戦った男たちの魂が、炉の内部のここそこに漂い、私たちに語りかけてくるような不思議な感覚も覚えた。

ぼくは「日本で大きな原発事故は起きない」と思っていた

じつは、一つ告白しなければならないことがある。私はチェルノブイリ原発事故の大型特集番組に、事故直後、2年目、3年目、4年目、10年目と計5回かかわったが、チェルノブイリのような原発事故は日本では決して起きないだろうと思っていた。そもそもチェルノブイリにある黒鉛炉は、日本の軽水炉に比べて安全メカニズムが貧弱。それに比べて、日本の軽水炉は安全設計が充実しており事故そのものが起きない仕組みになっている(と説明されていた)。万一事故が起きても、日本では、情報を隠したり操作するようなことはなく、効率的合理的に処理し、影響の拡大を最小限に抑えるだろう。なぜなら、ソ連は秘密主義が横行する腐敗した社会主義国。日本は先進的な資本主義国。しかも日本には世界に冠たる技術力がある。チェルノブイリとは全く違う状況。そう思っていた。しかし今、福島原発事故が起き、それは単なる幻想、思い込みだったことが分かった。私は、福島原発から立ち上る水素爆発の煙を見て、身が凍りついたが、その映像は、遠い外国のものではなく、間違いなく日本で起きた映像なのだ。その戦慄。私は、最近、チェルノブイリ事故を取材したジャーナリストの多くも、どこかしら、私と同じような印象を持っていたのではないかと想像することが多い。チェルノブイリ事故に厳しい目を向けていた日本のジャーナリストたちも、「まさか日本ではこのようなことは起きない」と、どこかで安心し、いつのまにか根拠のない原発安全神話にまきこまれ、共同幻想を作っていたのではないか。もしそうなら、我々マスコミも、今回の事故の責任の一端を担っていることになる。福島第一原発の事故後、混乱し、対応に窮する政府、東京電力の様子を見て、ぼくはいつか見た光景と似た、デジャブのようなものを感じた。チェルノブイリ事故から25年。いったい私たちは、今まで何を学んできただろうか。福島でその教訓がきちんと生きていただろうか。そう思えば思うほど、ある種の焦りと虚脱感が私を襲ってくる。

●放射線の人体への影響はどこまでわかったか?

放射線は人体にどのような影響を与えるのか?結論から言って、わからないことが大変多い。しかし、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリなどの研究で、ある程度までは分かってきた。そのポイントをまとめてみよう。

放射線の人体への影響は、よく100ミリシーベルトという数字を境に説明される。いままでの事例を調べると、100ミリシーベルト以上の被ばくがあった場合、人体への影響が出る可能性が出てくる。例えば、一般的に、500ミリシーベルト全身被曝でリンパ球の減少が起き、100ミリシーベルトで悪心や嘔吐(10%)、7000-10000シーベルトで死に至るといわれている。チェルノブイリでも、これらの高線量被曝については、消防士の死亡やがんなどが実際に確認されている。問題は100ミリシーベルト以下の、いわゆる「低線量被曝」といわれるゾーンだ。結論から言うと、影響があるかどうかよくわからない。もしあったとしても、例えばがんの発生など、ほかの要因によるものとまぎれてしまい、特定できないという。そこで、100ミリシーベルト以上で起きることを敷衍して、低線量被曝でも同じようなことが起きているという「仮説」を立てることになった。

一般に毒物などで、安全基準値を決める時、次のような根拠による。例えばある毒物を摂取すると、急激に毒性が高まるポイント(しきい値)があれば、そこを基準値とすると合理的だ。しかし放射線の場合はそのしきい値がない。100ミリシーベルト以上で分かったことを低線量被曝に適用して考える仮説(直線仮説)のため、どこにも急速に毒性が高まる部分がなく、一定の比率で直線的に0に近づいていく。しきい値がないので、基準値を設定する部分はいくらでもあることになる。低線量被曝でよく心配されるのは、がんになる確率だが、直線仮説でいうと、100ミリシーベルト被曝で0・5%増加、10ミリシーベルトで0.05%増加、1ミリシーベルトで0.005%増加と、0に向かって一律に数値が下がっていく。逆に言うとがんになる可能性は常にあり、がんを減らすためには果てしなく被曝を0に近づける努力が必要ということになる。しかしこの計算はあくまで仮説に基づくもので、本当にそうかどうかはわからない。100ミリシーベルトから0に向かっては、実際は直線ではなく、上に膨らんでいるかもしれないし、逆に下にくぼんでいるかもしれない。しかも一般に言われるように、日本人の半数ががんにかかることを思うと、100ミリシーベルト以下のがん増加率が多いのかどうかわからないし、がんの要因の、たばこやその他の環境要因もあることを考えると、どう受け止めればいいのか迷ってくる。実際、放射線によるがんの比率をどのくらい必死に減らすべきなのかについても疑問が残る。放射線の影響を巡る混乱は、基本的にはこの「わからなさ」につながる直線仮説からきているといってもよい。

また被曝には外から被曝する「外部被ばく」と、水や食物を通じて体内に取り込まれ、体の内側から被曝する「内部被ばく」があるが、後者についてもよくわかっていない。いままで内部被ばくで確認されていることは、放射性ヨウ素が子供の甲状腺がんを引き起こす場合があるということだけだ。チェルノブイリでは、政府の対応が遅く、住民への事故の情報公開が大幅に遅れ、大量の放射性ヨウ素が、牛乳や食物を通じて人体に入ったため、子供に甲状腺がんが発生した。事故20年後、大人でも甲状腺がんの増加があるとの報告が出たが、大人の甲状腺がんは多く、どれが放射線によるものかの特定が難しい。子供の甲状腺がんはもともと珍しく、放射線による影響が際立つため、放出された放射性物質(放射性ヨウ素)との関係が認められたわけだ。原発事故で、よく問題になる放射性物質には、このほかにも放射性セシウムや、ストロンチウム、プルトニウムなどがあるが、福島の場合、今のところ問題になるものは、放射性ヨウ素以外は、放射性セシウムだ。半減期が30年と長く、環境にとどまることで、内部被ばくが心配される。しかし、チェルノブイリの報告では、放射性セシウムによる内部被ばくの影響は、今のところ報告されていない。もちろん「報告なし」は「安全だ」と同じとは言えないわけで、今後長期的な調査を絶え間なく続けていく努力が必要となる。

●どうする?原発

いろいろとくどくど書いたが、要するに放射線と人体との関係はよくわかっていない。私たちが、今問われているのは、この「わからなさ」、あいまいなリスクに、どう向き合い、行動すればいいのかということだ。しかしそれは難しい問題である。たとえば、社会を運用するには法律や基準が必要だが、放射線と人体への影響については、科学的に不明な部分が多いため、社会的ルールに合理的に反映させることが難しい。福島市などの小学校での放射線基準を巡る混乱も、その文脈に乗っている。日本が仮に全体主義的な国で、国家が定めた安全基準や避難基準に国民が異議を唱えても、強権で押さえつけることができるのならばそれでもいいだろう。しかし日本のような民主主義国では、国民には、自由に基準の根拠を国に問い、批判できる権利がある。その際科学的合理的に説明がつけば、論争はやがて収束するが、科学的に説明しきれないときは、論争が果てしなく続くことになる。科学的あいまいさを乗り越えて、議論によって社会合意を形成できればそれでいいのだ。しかし、今までの成り行きを見ていると、日本社会(ある意味人類全体)の認識は、まだそこまで成熟していないのではないかと思えてくる。福島から来た人を食堂に入れないとか、工業製品の輸入を拒否する国が出るといった、いわゆる風評被害を見ても、私たちの社会が、放射能と共存するしなやかさやしたたかさを、十分に持っていないことがわかる。

もう一つ事態を複雑にさせる要素がある。それは放射能がいったん自然環境に放出された時の、予測のしにくさだ。チェルノブイリの時もそうだったが、原発事故直後は、放射性物質の放出量や風向きなどがわからないため、緊急避難的に一定の円を描き(たとえば半径30キロ)、内側の住民を避難させたりする。しかしこの円は、当然のことながら、その後判明する放射能汚染状況とは一致しない。原発から放出された放射性物質は、風に乗って移動するが、常に方向を変える。また、放射性物質が放出されたときの温度によって高度も変わる(チェルノブイリのような爆発を伴う場合は高度が高く、福島のような場合は低空を移動する)。そして、放射性物質は雲状になって移動し、地形やその他の自然環境で、落下や拡大の仕方が変わる。山肌に落下したり、高い山に食い止められて迂回したり、雨によって落ちたりする。その結果、放射能汚染地図は、同心円とは異なる複雑な形となる。さらに、地上に落下した後も、水に乗って移動したり、一か所に集まったり、地下水に侵入して遠くの水系に影響を与えたりする。ホットスポットは、水や地形によって、放射能が集まり、放射能が高濃度になった場所だが、この発見が遅れると、当然ながら住民の混乱につながることになる。

このような状況を見ると、放射能は何が何でも原発の中に閉じ込め、管理すべき物質だということがわかる。うまく管理すれば膨大な電力を作る有益な物質だが、事故でいったん人間の手を離れると、いろいろなレベルで制御不能となり、混乱を引き起こす。私は、放射性物質は、レントゲン撮影、品種改良など、非常に有用な物質として、今なお有用だが、電力を得るためのツールとしてはどうなのだろうと疑問を感じる。事故に限らず、放射性廃棄物の処理を巡っては、もともと大きな問題が残っている。「トイレなきマンション」などと揶揄されてきたが、高レベルの核廃棄物は、結局のところ深い地中などに長期間保管せざるを得ない。しかし何万年も保管するとき、そこに危険な放射性物質があることを、どのようにして未来の人類に伝えるのかという問題も残る。歴史が始まってまだ2011年。その間、多くの国が亡び、体制が変わり、社会構造が変化し、文化も、言葉すら変化した。数万年以上の時間スケールは、人類の想像力を超える。例えば、地下に保管した放射性廃棄物の存在を知らせるためにピラミッドのような構造物を立てたら、未来人は興味本位で掘り返すかもしれないし、何も作らずにいたら、偶然掘り起こすかもしれない。この状況を見ると、膨大な放射性廃棄物を生み出す原発は、「あとはよろしく」という発想で支えられていることがわかる。現代の利益のために「未来を抵当に入れる」無責任な行為ともいえる。福島原発事故という体験をした今こそ、人類と原発の関係や、未来に向けたエネルギーの在り方を深く考えるべき時だと、改めて思う。

なぜこんなに騒ぐのか?

私は取材を続けてきて、素朴に疑問を感じることがある。放射線の人体への影響は、ざっくりいうと「大量被ばくでの急性症状」(ソ連政府発表では・人死亡)「放射性ヨウ素での子供の甲状腺がん」(・人死亡?)が分かっているだけだ。放射性セシウムやその他の核種による低線量被曝や、内部被ばくの影響はまだ不明。もちろんこの点については、深い不安は残るが、数字によって実証されているわけではない。ある研究者に言わせると、「チェルノブイリですら死者は大したことない。福島はまだ一人も放射線で死んでいないので心配ない」となる。低線量被曝による死者数予測も、直線仮説に基づき推定されているだけで、母数が増えればその分増加する。よく言われる100ミリシーベルトで0.5%増加。10ミリシーベルトで0.05%増加という数字も、日本人のがん発生率が半数だとか、たばこやその他の化学物質のがん発生率を考えると、たいしたことないという結論もありうる。しかし、ここで一つの疑問が出てくる。「医学的にそんなに心配ないのならば、なぜ世界中がこれほど混乱するのだろうか?」私はそのギャップが不思議で何人かの有識者に質問したことがある。

答えはある意味、驚くべきものだった。一つ目の考えは「米ソが対立している時代、保有している核兵器の危険性を強調し、核保有国の存在を強調するために、政治的にプロパガンダされたから」。もう一つは「東京大空襲などと比べて、ヒロシマナガサキの補償を確実にするため、違い(放射線)を強調した。ヒロシマナガサキは、人類全体にとっても、大規模な放射線被害であり、日本での位置づけが、やがて世界の考えに影響していった」というもの。真偽のほどは分からないが、きけばある意味なるほどと納得できる。本当のところはどうなのだろうか?放射線には謎が多い。

●忘れられないエピソード1「サハロフ博士の一言」

・私は、チェルノブイリ事故の取材を通じて様々な人に出会った。まず思い浮かぶのは、ノーベル平和賞を受賞した反体制物理学者サハロフ博士だ。博士は、ソ連で原爆、水爆研究をしたのち、人権活動、アフガン侵攻批判など反体制に転じ、流刑処分されたが、自らの主義を一生かけて貫いた反骨の人だった。私は、NHK広島放送局に3年間いたことがあるが、1988年に、大江健三郎さんとサハロフ博士の対談番組を担当した。対談は、原爆ドームが見える大きな窓のある一室で行われたが、収録の合間に、たまたまサハロフ博士と二人きりになれ、30分程、当時進行中のチェルノブイリ事故の状況をたずねることができた。博士はとても優しく真摯な方で、微にいり細にいり教えてくださった。話の流れで、たまたま僕の父親と原爆の不思議な関係(原爆投下時、広島駅に到着した列車に乗る筈が、たまたま乗らず、友人は死んでしまった話)を話したら、「あなたはチェルノブイリに行くべきだ」と熱心にすすめてくださった。当時のチェルノブイリに関する情報は、玉石混交で、真偽がわからず、マスコミも混乱した状況だった。しかし、サハロフ博士の助言で、私のチェルノブイリ事故のイメージはしっかりしたものになり、「チェルノブイリに行こう」と心を決めた。博士は、広島原爆の経験は、チェルノブイリの住民の心につながっており、取材通じて、お互いが何らかの共通項を発見したり、学びあえるだろうと励ましてくださった。博士は、対談を終え、帰国し、残念ながらその直後、突然亡くなった。私は二度とサハロフ先生の助言を得ることはできなくなったが、チェルノブイリ取材で悩む時、サハロフ先生の助言がよみがえり、僕を導いてくれたことを本当に感謝している。広島でお会いした時、サハロフ先生のそばで、静かに微笑んでいた奥様のエレーナさんは、22年後の今年、88歳の人生を閉じられた。お二人はともに人権活動に人生をささげ、激動の中で幕を閉じたが、今は仲良くモスクワの墓地に眠っている。ご冥福を心からお祈りしたい。

(追記)

サハロフ先生と初めて話を交わしたのは、広島のあるビルのトイレの中。男性用の便器の前での立ち話だった。私は「日本にはツレションという言葉があり、男同志が仲良くなる儀式のようなものだ」と説明したら、博士は楽しそうに話をはじめ、30分もの時間を割いてくれた。

サハロフ先生とは実は死後ももう一度お会いした。わたしがNHKスペシャル「驚異の小宇宙人体2脳と心」の取材をするためにモスクワを訪れた時、モスクワの脳研究所に天才たちの脳が保存されており、なんとサハロフ先生の脳も並んでいた。研究者の促しで、サハロフ先生の脳のサンプルを手にしたが、感無量で、不思議な再開に涙が流れたことを覚えている。

●忘れられないエピソード2「汚染地帯の村の地鳥卵とキノコの歓迎会」

・チェルノブイリ汚染地帯の取材は、通算数回、延べ半年ほどに及ぶ。高濃度汚染地帯で宿をとったり、車の中で寝たりしたこともある。当時のソ連は、経済破綻しており、都市でもなかなか、日用品や食べ物が手に入らない。夜の食事でも午前中にアポを取らなければレストランで食事にありつけないこともあった。ましてや汚染地帯の町や村での食事は大変で、日本から持ち込んだインスタントラーメンがごちそうだった。そんな中、取材先の村で僕たち取材班の歓迎会をやってくれることになった。行ってみると村民が集まり、テーブル上にごちそうがずらりと並んでいる。ロシア風の揚げ物や、サラダ、卵料理、肉のようなものまで並んでいた。テーブルの中央に座っている村長さんがウオッカで乾杯の音頭を取ったのち、あいさつした。

「今日は日本から大切な客人が来た。村を挙げてもてなしたい。土地の伝統料理。堪能していただきたい!」

両手を大きく広げ、ロシア風の少し大げさなアクションで、めしあがれと促した。

「ありがとうございます!とてもおいしそうですね!」とうれしい気持ちを表現したが、実は、私たちは最初から少しためらっていた。その村が、放射能汚染地帯のひとつだったからだ。取材で歓迎の意を伝えられ、招待されたのはありがたいのだが、正直言って困っていた。しかもよく見ると、テーブルに並んでいる地鶏の卵やキノコは、放射能が濃縮されやすい、危険な食材ではないか。しかし少し時間がたち、ウオッカがまわってきたこともあり、もういいやとばかり食事に手を付けた。食べてみるとどれも美味で、素晴らしい料理だった。地鶏の卵もキノコのサラダもうまかった。村長はそんな私たちの姿をしばらく見て、おもむろに口を開いた。

「室山さん。今日の食材は除染された土地のものばかりです。心配ないよ」

食事が始まって今頃言っても遅すぎるぞと思ったが、その後考えてみると、村長さんは、私たちが信頼できる人間かどうかを試していたのかもしれない。それが証拠に、食事に手を付けたのち、いろいろな資料が次々に出てきて、チェルノブイリ事故の裏側や汚染地帯の現状を詳しく教えてくれた。秘密文書のようなものもあり、特ダネに「やったぞ」と思ったが、複雑な気持ちになった。自分が、思惑で動く、少し汚いジャーナリストだと、心の中に苦い味が広がった。

●忘れられないエピソード3「避難村の村長さんの最後の一言」

私は、はじめて汚染地帯に立ったときの気持ちを忘れることができない。特に、チェルノブイリ原発から30キロの、住民がすべて避難した「ゾーン」の中は、美しかった。透明な空気、青い湖、川、草原地帯、青空をゆっくりと飛ぶコウノトリ、鮮やかな麦畑をうねらせながら風が通り過ぎていく。まるで童話の世界を絵にしたような風景。しかし住民はいない。汚染勧告で全員が避難したため、生活の様子を残したまま、人間だけがすっぽりと消えている。不気味なほどの静寂。遠くに事故を起こした4号炉がシルエットで見える。「色もなければにおいもしない」放射能汚染の現場---風景が美しければ美しいほど、それに比例して、五感ではわからない放射能汚染が、恐怖感を増幅させた。

汚染地帯で、問題がさらに深刻化したのは、事故から4年目だった。事故直後、原発から周囲30キロ以内は立ち入り禁止ゾーンとして無人化したが、ゾーンの外は放射能汚染がなく、立ち退きの必要がないエリアとされていた。しかし、事故の4年後、チェルノブイリ原発から放出された放射性物質が、予測不能の気流に乗り、「ゾーン」をはるかに越えた北方のベラルーシ共和国に、大量に降り注いでいたことが分かった。所々に、「ホットスポット」(超高濃度汚染地域)ができており、住民は大パニックに陥った。「水」が集まる場所は穀倉地帯であり、結果的に自然の恵みのメカニズムが裏目となった。公表されていた放射能汚染地図も、根本的に書き換えなければならない最悪の事態であった。私たちは、やがて、そのベラルーシにカメラを入れた。ベラルーシの村々の畑には、たわわに実った麦が、汚染のため収穫されないまま放置されていた。すでに住民避難が始まっており、歯が抜けるように住民が減り始めていた。避難は赤ちゃんをもつ若い夫婦から始まった。若い人が集まる店がつぶれ、学校が消え、共同体が機能を失いつつあった。老人と一緒に住む大家族では、若夫婦だけが子供を連れて逃げた。「老人たちは見知らぬ新しい場所に逃げるより、村に残ることを望んだ。」と役場の人は説明したが、実際は、老人とともに新しい人生を始める経済的余裕がなく、「現代の姥捨て山」とでもいえる状況が起きていた。老人たちは、行く当ても、生活のすべもないまま放置された。放射能汚染が村人や家族の絆を引き裂き、崩壊させ始めていた。その近くに、住民全員を引き連れて、知人のいる場所へ避難する決意をした小さな村の村長がいた。奇妙なことに、その村は汚染レベルとしては国が定める基準値以下の村だった。「逃げる必要がないのになぜ避難するのか?」私の問いに村長は答えた。「たしかに放射能は遺伝子DNAを傷つけ、人体にダメージを与える。しかし傷つくものはもうひとつある。それは心だ。汚染地帯にいると、たとえ汚染レベルが低くても、共同体が壊れ、人の絆がずたずたに切れていく。そこでは体は生きても、心が死んでしまう。「心が死ぬ場所」に、人間が暮らすことはできない。」村長の言葉が私の心に突き刺さった。私のディレクター人生で、忘れられない言葉の一つとなった。東京に帰って私は考えた。人間が人間として生きていくとはどういうことなのだろうか。科学番組をやっていると、人間を精密な機械として見、物理的ものさしだけで判断をする癖がついてくる。健康上安全な場所から「気分だけで」避難する人をまるで愚か者のように感じてくる。しかし人間には、生物的(物理的)存在としての側面のほかに、社会的、文化的存在としての側面がある。「人はパンのみでは生きない」。この当たり前のことを私たちはすぐに忘れ、無慈悲なシステムを作り上げてはこなかっただろうか。人間の顕在意識だけを尊重し、その底流にある潜在意識の世界を忘れてはいないだろうか。形あるものだけを信じてはいないだろうか。形のないものに内在する価値を忘れ去ってはいないだろうか。チェルノブイリで私は、被曝には「体の被曝」と「心の被曝」があることを知った。

●エピソード4「汚染地帯の原爆の味」

・チェルノブイリの汚染地帯のロケで、ブラギンという高濃度汚染地帯の村に行った。ブラギンは30キロゾーン周辺でも特に汚染が激しい村で、膨大な除染剤がまかれているとはいえ、長居すると危険だった。その日は特に暑い日で、風も強く、車の外は巻き上がったほこりがすぐに車の窓にたまってしまうほどだった。お年を召した岡野博士は、汚染地帯のどこにいても泰然自若として、放射線をそんなに恐れなくてもよいと、私たちを静かに諭していたが、その日は違った。なんと草むらに入った時、ものすごい勢いで逃げだしたのだ。一瞬、先生の「逃げなさい」という小さな声が聞こえたが、気が付いたら岡野先生の姿はなかった。お年寄りで威厳ある科学者が、砂煙をあげながら全力疾走で逃げる後ろ姿は、今思い出しても身の毛もよだつ風景だ。草むらは、放射能がたまる表面積も大きく、水が集中することではホットスポットになりやすく、かつ除染しにくいため、汚染地帯でも注意が必要な場所。しかし、岡野先生の行動で、本当に怖いのだということを身に染みて感じ、以後あまり入らなくなった。もう一つの体験は、少し不思議な体験。砂煙が上がる中に、車から降りて、ロケを始めた時、突然私の口の中に、鉛のような金属の味が広がった。乾電池の電極をなめると口がしびれるような味がするが、あれとよく似た感じで、やがて口の中と舌がしびれ始めた。なんだこれはと思って車に逃げ込むと、同行している通訳の人も同じ現象になっていた。しかしその体験を感じたのは、私と2人だけで、ほかのスタッフは何も感じなかったという。私は当時広島放送局のディレクターで、同僚から「原爆を投下したエノラゲイの乗組員が、投下のあと口の中で金属の味がしたらしい」という話を聞いていたので、それと関係あるのかと不思議に思った。スリーマイルでも同じような現象があったと聞いたことがあるが、チェルノブイリの汚染地帯で感じた、あの「原爆の味」はいったいなんだったのだろうか?

●エピソード5「涙でかすんだ空から見た4号炉」

・ロケをしていて、そのシーンが脳裏に焼きついて、ずっと忘れられないことがある。私は上空から見た事故後の4号炉の光景を忘れることができない。事故から3年後、私は西側クルーで初めて、軍のヘリコプターを借りて、上空からチェルノブイリ原発4号炉を撮影した。見渡す限りの豊かな自然。ところどころに湖や、青く光るうねる川も見える。しかし原発に近づくにつれ、緑は減り、人間が掘り返した土地が増え、赤茶けた感じになってくる。4号炉周辺は、まるで櫛をひっかいたようにむき出しの土地が広がり、忙しく除染作業にあたるトラックや重機が見える。その中心に、黒鉛色の4号炉の石棺がある。まるで4号炉が波紋の中心にあり、そこに石を落したように、周囲に不幸の波紋が広がったような風景。その悲劇の中心に人間がいることを証明するような風景。それを見つめてわたしは、わけもなく悲しい気持ちになり、涙があふれ、止まらなくなった。「ついにやってしまった」人間の所業を感じ、怒りやおそれではない虚無的な気分だった。涙の向こうに、4号炉がゆらゆらと揺れて見えた。あの時見た水中に没したようなチェルノブイリ原発4号炉の姿は、そのまま私の心象風景になり、脳の奥深くに刻み付けられたように思う。

ジャーナリズムは何を伝えるべきか

人類はこれからどんな文明を作り上げていくのだろうか?ホモサピエンスが誕生したのは今から15万年前。巨大な脳を持ち、2足歩行し、脳内にイメージを浮かべ、言葉や記号化した情報をいくつもの階層に練り上げ、脳内世界を外在化し、文明を築いてきた。「ものを作る」能力を持つため、地球上の資源や素材を使って、自らの安全や快楽を実現するための道具、機械、都市を作り、自らを家畜化して生き延び、地球上の144万種の種を席巻してきた。今、自らの遺伝子の仕組みを操作し、脳とコンピュータを接続して能力を拡大する科学を手に入れ、宇宙の原理を使って膨大なエネルギーを手に入れた。この流れをどう見るか。大進化に向かう人間の栄光だとみる人もいれば、生物としての存在の危機とみる人もいる。その作業の果てに手に入れた一つの成果物が原子力エネルギーだったともいえる。しかし、その原子力エネルギーを人類はまだ、思うように操ることができない。チェルノブイリ原発事故や福島第一原発事故は、そのような人類のありようを映す鏡ではなかろうか。そこに自らの姿を映し、今後の進化のありようを、しっかりと自らに問うことが、今ほど必要なときはないように思えて仕方がない。ジャーナリズムの仕事は、「今がいつか、ここはどこか、我々は何者で、どこに向かおうとしているのか」を鳥瞰し、そのプロセスに現れる様々な問題や課題をいち早く伝えることだと思うが、その仕事を私たちはきちんと実践しているだろうか?表面の現象のみに汲々として、その底部に流れる巨大な流れを見失っていないだろうか?原発事故の向こうに文明のありようを見ぬいているだろうか?日本のジャーナリズムに一端に籍を置くものとして、その責任をきちんと果たすための努力を、続けなければならないと、最近しみじみと思う。

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執筆活動

「ウルトラアイ」1.2.3.4(共著1983)「驚異の小宇宙人体2脳と心〜脳の再生」(全著1993)
「シリーズ原子力」1.2.3.4(共著1995)「原発社会のリスクを考える」(共著2012年秋30頁)日本学術学会HPコラム「学習と記憶」1.2.3.4全20頁(2002)Journal of Japanese Trade & Industry May/June2003「Japan’s Underlying Strength :The Future as Created by Robots」5頁(2003)日本ロボット学会誌特集ロボットシティvol22「ロボットシティへの質問」4頁(2004)
Crystal Letters50周年特集号「科学番組からみた物質科学」5頁(2005.12)JAXA長期ビジョン2025「問題解決型の宇宙開発を」(2005)「LIBRA」インタビュー記事「私の歩んだ道」(2頁)(日本弁護士会報2007.2)山陽新聞「子供記者のページ:かけがえない地球を守ろう2頁」(2008.3.16)雑誌「いきいき」2009年11号「自閉症特集イ」ンタビュー2頁(2009)リハビリテーションエンジニアリングvol23「社会に伝える」5頁(2008)武蔵野東会報「ハートtoハート」テレビマンの育児日記1.2.3.4(2010)「感性報道価値研究会」報告書「テレビから見た価値創造」(30頁2010.3.12)「日本の宇宙産業〜宇宙を使う、暮らしが変わる」1頁(JAXA)(2010)玉川大学学誌「全人」2010年6月号「脳と心の対話〜テレビマンから見た脳科学」4頁(2010.6)隔月刊「特別支援教育の実践情報」2010年4.5月号「自閉症の娘に教えてもらったこと」(2010.4)国立天文台「宇宙映像利用による科学文化形成ユニット科学プロデューサー養成コース」教科書15頁執筆(2011)日本アイソトープ協会誌「福島原発の被ばく不安を考える」4頁(2011)「スペースシャトルその栄光と挫折~世界を変えた宇宙開発」(2012年DVD解説)「マスコミからみた放射能問題」(環境と健康2012.12月号)「科学ジャーナリストの警告」(福島原発事故2012.09共著:清流出版)

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