執筆活動

「自然エネルギーと安全保障」2022.5.2

「自然エネルギーと安全保障」
室山哲也(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長)
ウクライナ戦争の各国の駆け引きを見ていると、安全保障にとって、エネルギーがどれほど重要かがよくわかる。豊かな天然ガスを持つロシアに対して制裁をかけようにも、その天然ガスに依存していては、交渉の切っ先が鈍ってしまうからだ。今後、安定したエネルギーをどう確保するのか?とりわけ、自前の国産エネルギーをどう育成するかが重要なカギとなる。
日本は資源が乏しく、エネルギーも世界に依存しなければ成り立たない国だと言われる。しかし、東日本大震災による原発事故以来、エネルギーをめぐる様々な議論が起きている。その中に、日本がもともと持っている自然エネルギーのポテンシャルを見直そうという動きがある。
日本は国土が狭い島国で、陸地の広さは世界の61位だ。しかし、実は、海(排他的経済水域(EEZ))を含めると、なんと世界6位の広さの海洋大国なのだという。さらに海が深く、容積では世界4位。そこを巨大なエネルギーの黒潮が流れている。もちろん、その強烈なエネルギーはほとんど利用されてはいない。
この海洋を舞台に、洋上風力発電や、潮流発電、波力発電、温度差発電などを展開し、エネルギーの舞台とする計画が動いている。また日本周辺の海底には、固体状の天然ガス「メタンハイドレート」が眠っており、日本が消費する天然ガスの、100年分に近い量があるという試算もある。
また、日本の地熱エネルギーは、アメリカ、インドネシアに続き世界第3位。森林率は先進国では第3位で、バイオマスの宝庫でもある。
さらに、上空から太陽エネルギーがふり注ぎ、豊富な水資源と、豊かな風力にも恵まれた国なのである。
つまり、日本は自然エネルギーの宝庫なのだ。
CO2を出さず、無尽蔵で、なによりも国産エネルギーなため、安全保障上も頼もしい存在といえる。
2011年の東日本大震災の時のエピソードがある。
ある村が津波で壊滅し、夜は暗黒の世界となった。ところが、ある家だけが不思議なことに電気が灯っていた。その主は、かねてから、自宅で小水力発電をしていた老人だった。
「電気はいっぱいあるのに変な人だねえ」と、人々は、奇異な目で見ていた。しかしその家が、災害後、希望の砦となった。夜の村の一角を照らし、冷蔵庫もつかって、人々は寄り添い、災難を乗り越えたのだという。
もちろん、わずかな電気で、村全体を救うことはできない。
しかし、救援までの数日間、その人たちは、なんとか持ちこたえることが出来た。
このエピソードは、自然エネルギーは、災害時などの緊急時に、しぶとい地域を作り出す、重要なインフラなのだということを示している。
自然エネルギーは不思議だ。
単に電気を作り出すだけでなく、共に生活する地域社会が生み出す財産として、人々の心の絆をつなぎ、地域社会を強靭化する、横糸のような存在ともいえるのではなかろうか。
今後、国際世界は、環境、エネルギー、経済、安全保障を織り交ぜながら、激動期に入っていく。
その中で、日本や地域社会がどのように自立し、持ちこたえていくのかを考えるためにも、自然エネルギーにどう向き合うべきかを、考えていく必要があるのではなかろうか。
(日刊自動車新聞2022年5月2日掲載)

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「新型コロナとSDGs」2022.4.5

「新型コロナとSDGs」

室山哲也(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長)

 

「もし人類が滅亡するとしたら、どんなプロセスをたどるだろうか?」

オックスフォード大学が、2015年に発表した「人類滅亡12のシナリオ」には、人類の未来を左右するさまざまな項目が並んでいる。

「気候変動」から始まり、「核戦争」「生態系の崩壊」「グローバル経済での格差拡大による国際システムの崩壊」「巨大隕石衝突」「大規模火山噴火」「バイオハザード」「ナノテクによる小型核兵器開発」「人工知能」「超汚染物質や宇宙人の襲来など未知の出来事」「政治の失敗」と続く中、3番目に「パンデミック(新興感染症)」があがっている。

私たちを悩ませている「新型コロナウイルス」は、この新興感染症の一つ。人間が、自然の奥深く侵入し、免疫をもたない「未知のウイルス」に感染し、現代社会の交通網に乗って世界中に拡大するメカニズムだといわれている。

ウイルスの変異は活発で、人間がたたいてもたたいても、新しいタイプのウイルスが現れる。このため、先進国だけが対策しても、開発途上国などの対応が遅れれば、変異が繰り返され、タチの悪いウイルスが現れ、先進国に再流入し、イタチごっこは終わらない。この構図は、人類全体で取り組まなければ根本的には解決しない点で、SDGs(持続可能な開発目標)のテーマそのものだと言える。

SDGsは、15年の国連サミットで、193カ国によって採択された。「環境問題」「貧困」「紛争」「格差」「健康問題」など、30年までに解決すべき17の目標が掲げられ、その下に169のターゲットが並んでいる。一見ばらばらの目標に見えるが、実はこれらは、根底で関連し合い、影響し合っている。

そしてその最も根本の部分に、「地球環境」があるのではなかろうか。

「命あっての物種」という言葉があるが、自然環境や生態系が壊れれば経済も、政治も、文化も成り立たないからだ。

産業革命以降、人類の人口は急激に増加し、地球環境に大きな負荷を与えてきた。エコロジカルフットプリントという指標でみると、人類は、すでに地球1・7個分の生活をしており、今の文明のパターンのまま、人類全員が日本人の水準の生活をすると、地球が2・8個、アメリカ人の水準の生活をすると、5個必要になるというデータもある(14年データ)。

地球は1個しかないわけで、このままでは、地球環境は疲弊し、資源は消耗し、私たち人間は、持続可能な生活を続けることはできなくなる。

これからは、私たちは「地球1個分の生活」をしながら、持続可能で、しかも豊かで質の高い生活をする方法を探さなければならない。

ではどうすればいいのか?

重要な方法の一つにテクノロジーがある。科学技術は、イノベーションと絡めていけば、効率がよく、最適で、人間を幸福にする社会をつくる力がある。中でも、自動車のありようは大きな影響を及ぼすものの一つだ。CASE(コネクテッド、自動運転、シェアリング、電動化)の方向性に従って、自動車が進化していくことは、今後の社会を大きく変える原動力になるに違いない。

(日刊自動車新聞2022年4月4日掲載)

 

室山哲也氏(むろやま・てつや)

1953(昭和28)年、岡山県倉敷市生まれ。76年NHK入局。「ウルトラアイ」「クローズアップ現代」「NHKスペシャル」などの科学番組、特集番組チーフプロデューサー、NHK解説主幹などを務めた。テクノロジー、生命・脳科学、地球環境問題、宇宙開発など、「人類と科学技術文明」をテーマに論説し、子供向け科学番組「科学大好き土よう塾」(教育テレビ)の塾長として科学教育にも尽力。モンテカルロ国際映像祭金獅子賞、銀獅子賞、レーニエ3世賞、放送文化基金賞、上海国際映像祭撮影賞、科学技術映像祭科学技術長官賞、橋田壽賀子賞ほか受賞多数。現在、日本科学技術ジャーナリスト会議会長。東京都市大学特別教授。

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ウクライナの人々を想う 2022.3.20

信じられない残酷な光景でした。

ロシアの軍隊が、ウクライナの広大な国土を取り囲み、侵入し、残酷な火器で次々に街を破壊し、子供を含む多くの市民を死傷させ、核兵器をちらつかせながら、次第に狂暴化していく姿・・。まるで19世紀の戦争です。しかもその戦争は、ミサイルやドローンなど、テクノロジーを駆使した近代兵器で装飾されており、さらにおぞましい印象を与えます。

核兵器の他、生物化学兵器などの大量殺りく兵器を背景にしながら、超高速ミサイル、原発への攻撃、繰り返される情報操作で、民主主義が破壊され、人類の安全保障が大きく揺らいでいます。

そしてその中で、今日も無辜の市民が犠牲になり続けています。

 

科学ジャーナリストは、このような時、どう考え、何を伝えていけばいいのでしょうか?

この非人道的行動が、科学技術開発、安全保障、民主主義、エネルギーや経済、情報社会、市民意識や教育などと関連し、複雑に絡み合って、引き起こされている現状を、どうとらえればいいのでしょうか?

 

野蛮な戦争は、一刻も早く終結させるべきです。

しかし、その背景は複雑で、今後整理しなければならないことが山積しています。答えは簡単に出そうありませんが、真剣に議論を続けることが大切だと思います。

 

それにしても、悲劇はいつも市民などの弱者に降り注ぎます。

私は、チェルノブイリ原発事故の番組取材で、10年間ロケを続け、その都度、キエフを拠点に、長く滞在したことがあります。原発事故の不安の中でも、キエフは美しい街でした。郊外に出ると緑があふれ、花が咲き、鳥がさえずっていました。独立広場で食べたおいしいアイスクリームも、家族が憩う団地のたたずまいも、居酒屋にいた人々の笑顔も脳裏に浮かんできます。

多くの知り合いもできました。

市内の団地に住む、タチアナさん一家は、ソ連時代の核実験場で被曝し、放射能汚染を免れて、キエフに移住してきました。しかしそこで再び、チェルノブイリ原発事故に直面するという、悲劇に見舞われました。消防士のご主人は、事故後、放射線による後遺症に苦しみながら亡くなりました。その家族が今、再びロシアによる恐怖に直面しているのです。

以前、タチアナさん達が、招待されて来日した時、家族を連れて、都内のホテルで再開しました。私の娘は自閉症で、それを知ったタチアナさんは、娘を強く抱きしめてくれました。弱い立場の人間をいたわる、心のやさしい人でした。その後も交流は続き、取材にいく仲間に義援金を託したりしましたが、消息が分からなくなりました。

ニュースで見る攻撃されるキエフの街角は、タチアナさんと歩いた場所です。その町で、多くの市民が犠牲になり、不幸の淵にあえいでいます。

あの人たちは今、どうなっているのだろう?

どこに避難して、生活しているのだろう?

食事はとれているのだろうか?

 

現地の凄惨な姿は、想像も及びません。

私は、自分の心も一緒に、武力で攻撃されているような、にぶい痛みを感じます。この戦争が一刻も早く終結し、少しでも平和な生活に戻ってほしいと、心から祈るばかりです。

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「自動運転と私たちの暮らし」2022.1.31

最近「自動運転」のニュースが目立つようになってきました。自動運転には大きなメリットがあります。たとえば、現在の交通事故の97%がドライバーの運転ミスですが、自動運転になれば事故が大幅に減ると言われています。また、渋滞が減るので、エネルギー問題や環境問題の解消にもつながるし、過疎地では、お年寄りを運んでくれる、頼もしい味方ともなります。

CASE」という言葉をご存じでしょうか?C(コネクテッド:通信でつながる車)、A(オートノマス:自動化)、S(シェアリング&サービス)、E(エレクトリック:電動化)を略した言葉です。

自動車は今、大きな革命期に入っており、自動運転は、ほかのテクノロジーの要素と絡み合いながら、社会に大きな変化を引き起こします。

車が、動くスマホのようになって社会とつながり、電気で走ることで気候変動を解決し、シェアカーの増加で、マイカーが減り、駐車場がなくなるので、町の様子が大きく変わります。「自動運転」を取り巻く影響は、単なる交通のみでなく、一種の社会革命をもたらすのです。

しかし、一方で、いくつもの課題があることもわかってきました。

自動運転のレベルは現在5つに分かれます。自動車はハンドルで左右に動き、アクセルやブレーキで縦方向に動いたり止まったりしますが、この縦、横の動きを、どの程度自動化しているかでレベルが決まります。

レベル1は、上記の動きの一つを自動化しているもの(自動追尾や自動ブレーキなど)。レベル2は上記の二つを自動化しているもの(車線を変えて追い越すなど)です。レベル12の車は、すでに多く市販されており、自動運転というよりも、むしろ「運転支援技術」といったほうがいいかもしれません。

その場合、運転主体はドライバーですから、事故責任は当然ドライバーが負います。

さて、問題はここからです。

レベル3以降は、運転主体はシステム(AI)です。レベル3はレベル2をさらに高度化したもので、高速道路などでは、ドライバーの監視下で、AIが自動運転を行います(万一の時はドライバーが運転をする)。レベル4は、一定の条件、例えば走行場所や時間、速度制限などの条件を守れば、AIが無人運転をすることができます(過疎地の無人バスなど)。そしてレベル5は、どこにでも無制限に行ける完全自動運転で、このレベルになると、もはや乗る人に運転免許は必要ありません。

ここまで説明すると、自動運転開発は、順風満帆で、実現はもはや時間の問題という印象を受けるかもしれません。しかし、技術が進化する一方、車(技術)と人間との関係について課題が見えてきました。

たとえば「法律上の問題」があります。

一つ例に挙げると、システムが自動運転をしている時に起きた事故責任は、誰がとるのかという問題です。自動車を製造したメーカーでしょうか?あるいは、車を所有しているドライバーでしょうか?

また、走行中の道路の表示が消えていたり、ゴミで表示が見えないために発生した事故は、誰の責任になるのでしょうか?事故原因のケースを想定すればするほど、責任の主体が増え、議論が複雑になっていく傾向があることがわかってきました。今後は、法律の整備が急がれます。

これらの課題の背景には「AIと人間の関係」という問題が横たわっています。

自動運転車はいつでも法律を守ります。法定速度40キロなら、絶対に速度オーバーはしません。すべての車が自動運転なら、おそらく交通は整然としており、事故も激減することでしょう。

しかし、人間のドライバーと混在したとき、問題が起きる可能性があります。

人間は時として、気まぐれで、予想外の行動をとるからです。また、時には法律を破ってでも、歩行者の命や安全を守ろうとする行動に出ます。

人間の意識やコミュニケーションは複雑です。

たとえば対向車がライトを点滅した時、その状況や回数に応じて意味が変わります。人間は、直観と、阿吽の呼吸でコミュニケーションをとります。

自動運転車のAIは、これらのあいまいな人間のコミュニケーションを、どこまで理解できるでしょうか?

これらのことを考えると、今後の自動運転の技術開発は、単に技術のみではなく、人間の心理や行動を、さらに理解したうえで、総合的に進める必要があるように思えます。

 

と、いろいろ課題を並べましたが、自動運転社会への動きは止まることはないでしょう。これから必要なことは、私たち市民がその状況に目を向け、社会の中で自動運転を育てていく意識が大切であることはだけは確かだと思います。

室山哲也(日本科学技術ジャーナリスト会議会長)

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「どうつくる?持続可能社会~新型コロナとSDGs」2022.1.30

オックスフォード大学が、2015年に発表した「人類滅亡12のシナリオ」というレポートがあります。もし、人類が滅亡するとしたら、どのようなプロセスをたどるかという報告です。内容をみると、「気候変動」「核戦争」「生態系の崩壊」「グローバル経済での格差拡大による国際システムの崩壊」「巨大隕石衝突」「大規模火山噴火」「バイオハザード」「ナノテクによる小型核兵器開発」「人工知能」「超汚染物質や宇宙人の襲来などの未知の出来事」「政治の失敗」と続きますが、3番目に「パンデミック(新興感染症)」があげられています。

実は、世界を混乱させている「新型コロナウイルス」も、この新興感染症の一つ。人間活動が活発化し、自然環境の奥深くに侵入することで、人間が免疫をもたない「未知のウイルス」に感染し、現代社会の活発な交通網に乗って、瞬く間に世界中に拡大するのです。

ウイルスの変異のスピードは活発で、世界各地で違ったタイプのウイルスが現れます。そのため、先進国だけが対策をしても、対応が難しい開発途上国で変異が繰り返され、感染力や毒性が強いウイルスが現れ、先進国に再流入するため、このゲームは終わりません。「新型コロナ」は、人類全体で取り組まなければ解決しない点で、まさにSDGsのテーマの一つといえます。

SDGsは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)の略称で、「エスディジーズ」と読みます。2015年の国連サミットで、加盟193か国が採択し、「環境問題」「貧困」「紛争」「格差」「健康問題」など17の目標を定め、2030年までに解決しようというものです。一見ばらばらの目標に見えますが、これらは根底で関連しあい、人類の未来を左右する重要な課題となっています。

SDGsが注目される背景に、何があるのでしょうか?

私が最も重要と考えるものに「環境問題」があります。

エコロジカルフットプリントという指標でみると、人類は、すでに地球1.7個分の生活をしており、もし全員が、今の文明のパターンのまま、日本人の水準の生活をすると、地球が2.8個、アメリカ人の水準の生活をすると、5個必要になります(2014年データ)。

しかし、地球は1個しかありません。このままでは、地球環境は疲弊し、資源は消耗し、私たち人間は、持続可能な生活を続けることはできません。

私たちは今後、地球1個分の生活をしながら、しかも豊かで幸福に暮らす方法を見つける必要があるのです。

ではどうすればいいのでしょうか?

エネルギーの面から考えてみましょう。

私たち人類は、今まで、石油や石炭などの化石エネルギーに頼りすぎ、気候変動などの深刻な環境問題を招いてきました。今後は、地球に負荷をかけない、「脱炭素エネルギー」が必要です。

その一つとして注目されているものが「再生可能エネルギー」です。

再生可能エネルギーは「太陽光」「風力」「地熱」「バイオマス」「海流」など、自然の力によって生み出されます。実は日本は、この再生可能エネルギーの宝庫なのです。

日本は陸域面積では世界61位の小さな島国ですが、排他的経済水域を合わせると、世界6位の海洋大国です。深い海が多く、容積では4位。そこに世界最強ともいえる黒潮が流れています。地熱エネルギーは世界3位、バイオマスを生み出す森林率も、先進国で3位。そして、日本全域に太陽光線が降り注ぎ、強い風が吹いている地域も多くあります。

このように、日本は、「自然エネルギー王国」であり、今後はこの自然エネルギーを、さらに生かしていく必要があります。

もう一つ、日本の強みとして「科学技術力」があります。

自然エネルギーと科学技術力をかけ合わせれば、大きな未来が生まれます。

政府が2020年に発表したグリーン成長戦略は、再生可能エネルギーを核とした成長戦略を目指しています。

たとえば海洋に洋上風力発電を建設する構想。海に浮かべるタイプの洋上風力発電には、日本の造船技術が使えます。また風力発電の羽根のまわりに「風レンズ」と呼ばれる輪を付けると、発電量が増加する研究もあります。さらに、火力発電所のCO2で海藻を育て、食料とエネルギーに転換したり、CO2を吸収するコンクリートなど、ユニークな研究が次々と生まれています。

SDGsは各国の個性を組み合わせ、人類全体で達成すべき目標です。

日本も、日本人が培ってきた知恵を組み合わせ、この人類の難局を切り抜けていく先頭グループで、活動を続けるべきではないでしょうか。

室山哲也(日本科学技術ジャーナリスト会議会長)

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「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

GALAC2020.11月号  

「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長:室山哲也)

 

  • 「科学ジャーナリズム」と聞くとドキッとする

「科学ジャーナリズム」の現状についての原稿を依頼され、私は少々、困っている。「科学ジャーナリズムとは何か」について、教科書的には説明できても、釈然としない気持ちが残るからだ。NHKで科学番組や解説委員を40年もやってきたのに、いまだによくわからない。それどころか、ますますその気持ちが強くなってきた。私は、大学時代は法学部、いわゆる文科系の人間だ。NHKに入局後、何の因縁か、科学番組部のディレクターとなり、その後、多くの科学報道や、科学番組に携わった。教育テレビの科学番組も作ったし、クローズアップ現代で、宇宙開発やノーベル賞、サリン事件も報道した。NHKスペシャルで、脳科学のドキュメンタリーや、天文学、生命科学、原発報道にも携わってきた。それらを通じて、数多くの科学者や専門家とも向き合ってきた。

しかし、自分が「科学ジャーナリスト」かと問うと、どこか違和感がある。大学で物理学や数学、生物学を専門に学んだ、著名な科学ジャーナリストとくらべて、自分との違いを感じてしまう。

私が、文字を使って表現する記者ではなく、映像を使うTVディレクターだったからかもしれない。

「記者は狩猟民族、ディレクターは農耕民族」という言葉があるが、記者は刻々と変化する社会事象に切り込み、情報をまとめ、11秒でも早く、正確に伝達する仕事だ。一方ディレクターは、同じ情報でも、すぐには報道せず、種をまき、1年後に実った実を収穫して、番組(物語)として放送する。

もちろん私も、科学に関する番組やニュースに関わるとき、元情報に当たる。研究した科学者を何度も取材し、論文を読み、社会的価値としての位置づけを行い、もう一度内容を確認したのちに、放送する。

しかし、高度な科学情報の場合、理解するのも大変だし、わかりやすく伝えるのはとてもむつかしい。私は七転八倒し、研究内容を易しく解説してくれるほかの研究者の講釈も受け、再び、ターゲットの科学者の研究室のドアをノックすることもあった。

半分冗談だが、「正しく」報道するのは、簡単だ。論文をそのまま見せればよい。しかしそれでは報道にならないので、情報を翻訳したり、単純化したりしながら、視聴者や読者に伝える必要がある。しかし、ここで大きな壁に突き当たる。「正確すぎると伝わらず、単純化しすぎるとウソになる」からだ。本質を見誤らず、適切な言葉や表現で単純化し、情報を正確に伝えるのは、本当に至難のわざだと思う。

 

  • 日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)がめざすもの

私は、1年半前NHKを退職したのち、今は、日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)という組織に属している。この会は、19947月に、新聞、放送、通信、出版などの科学ジャーナリストたちが、組織を超えて交流し、刺激しあいながら、新しい価値を生み出そうと誕生した。現在では、新聞記者、テレビプロデューサー、出版の編集者のみならず、大学研究者、フリーランス、企業の広報、弁護士、主婦、学生も参加して、会員数200名を超えるまでになっている。

JASTJの活動は、月例会(講演会)や見学会、会報発行、出版、科学ジャーナリスト賞(その年の優れた記事、著作、放送、展示などを表彰)、JASTJ塾(後進の育成)、科学ジャーナリスト世界会議への参加など、多岐にわたる。

JASTJの長所は、会員と活動の多様性だ。放送業界で仕事をしてきた私は、私の分野とは違う様々な科学ジャーナリストたちの、取材の仕方、伝え方の多様性に触れ、感心するとともに、自分が、放送業界の人間だと、あらためて気づくのだ。

 

 

  • 科学ジャーナリズムの意義

私が、NHKスペシャル「人体:脳と心」の制作にかかわっていた時、取材先でよく「カニッツアの三角形」の話を聞いた。図に書かれているのは、折れ曲がった線と、円に切れ目が入った図形だけなのに、なぜか真ん中に白い三角形が見えてくる。これは、人間の脳が、断片的な情報を手掛かりに、勝手に作り上げた幻影だ。この現象は、人間の脳の機能のすばらしさとともに、脳の危険な落とし穴も示している。脳は、外部からの信号をもとに、脳内に「世界」を作り出す。そして、この仮想情報は、高次になるにつれて、その人が属している文化、国、環境に影響される傾向があり、異なる主観を生み出していく。この多様な主観を乗り越え、できるだけ客観的で、検証可能な認識に近づくために、科学的手法があるのだと思う。

 

あるアメリカのジャーナリストは、記者の基本は「マリスの除去」だと述べた。「マリス」とは「悪意」のことで、取材するとき、まず自分の心からマリスを除去し、透明な心で、謙虚に取材し、反論に耳を傾け、情報と正しく格闘し、整理し、伝えていく必要があるという。私たちの脳内に浮かぶ、悪意、善意、興奮、喜び、悲しみなどの情動を排除し、できるだけ客観的に、事実を共有できる良質な情報に、磨き上げる必要がある。科学ジャーナリストとは、そのような作業を必要とする人々であり、科学技術が日々進化し、多様化、複雑化する現代社会においては、ますます重要な存在となっている。

 

  • 放送メディアは科学ジャーナリズムを体現できるか

ところで、テレビなどの放送業界における「科学ジャーナリズム」は、新聞や雑誌などとどう違うのだろうか?

以前、月面探査機「かぐや」が、月面の様子をハイビジョンで伝えたとき、専門家との電話で、次のような話が出たことがある。

「室山さん、見ましたよ。私は、あそこで写っているものや事象は、すべて知っていました。でも、見てびっくりしました!」

私はこの言葉を聞いて、うれしくなった。「知っていたけどびっくりした」とは、映像が持つ存在感が、文字や記号や知識の範疇を超え、潜在意識に、何か強烈なものを伝えたからではないだろうか。私は、これはテレビマンとしての最高の誉め言葉だと思った。

また、プラネタリウムを作るとき、目で見える星以外の、見えない星もすべて投影するという話を聞いたことがある。そのほうが、宇宙空間のリアリティが増すというのだ。見えないのに、なぜリアリティが増すのだろうか?映像の世界には、文字とは違う、何か特別な潜在的な情報が含まれているのだろうか。

放送では、もちろん言葉や文字も使う。その部分は、新聞と同じだ。しかし、それに映像が加わった時、「科学ジャーナリズム」がどのように変質し、成立するのか?私には、まだよくわからない。もう少し、時間をかけて考えてみなければならない。

 

  • CGが作り出す世界

最近の放送を見ていて、気になることがある。

それは、番組やニュースで使われるCG(コンピューターグラフィック)についてだ。じつは私も、科学番組を作るとき、やたらとCGを使ってきた。今から20数年前「NHKスペシャル脳と心」のディレクターをしていた頃、CGは最先端の表現手段として注目されていた。当時、CGと言えば、メタリックな映像が主流で、リアルな映像との合成が、やっとでき始めた頃だった。その後、コンピュータ技術の目覚ましい進歩で、どこがCGかわからないほどリアリティを増し、今や、テレビ業界では、CGを使わない日はないほど、日常的なものとなっている。

しかし私は、この状況に、漠然とした不安を覚える。

例えば、科学番組やニュースで、脳のメカニズムを説明するとき、ポンチ絵程度なら問題はないが、本物と見間違えるようなCGで説明した時、それが、虚構なのかリアルな世界なのかがわからなくなってくる。

特に、大型の科学番組などで、神経細胞の世界を、ダイナミックな視点移動で説明したり、神経伝達物質の様子を、色を付けて映像化するなど、一大スペクタクルとなっている。まるで、見てきたような感動があり、何よりもわかりやすい。しかし、所詮、CGは作り物である。実際の脳は、中身がぎっしり詰まっており、もっと複雑で、混沌とした世界だ。

もし子供がこのテレビを見て、脳は、そのようなものだと思い込んだら、どうなるのだろうか。きちんと整理された、知識の体系を学ぶのは、いいことだとは思う。しかし、現実の世界に直面し、その複雑さと存在感に触れたのちに、CGで理解する順序ではないだろうか。現実を体験しないまま、疑似映像が多用され続けていくとしたら、この世界に対する敬意や、畏怖の念が忘れ去られ、本当の意味での「科学的思考」を身につけることが出来なくなっていくのではないかと思う。

 

 

  • 未来の科学ジャーナリズムを育てるために

科学ジャーナリズムが、今後、成長するには何が必要だろうか?それは科学ジャーナリズムを支える、スペシャリストの育成に尽きる。海外で取材すると、50代や60代の科学ジャーナリストたちが、生き生きと取材活動を続けている様子をよく見かける。彼らは、知識は豊富で、人脈も豊か。時には専門家が一目置くような発言もする。一方、日本からのジャーナリストは、どちらかというと、若い人が多く、その厚みや存在感において、やや劣っていることを否定できない。

放送局勤務の私の経験から言うと、一般的に、人事の方針は、ジェネラリスト重視。優れた科学ジャーナリストも、部長や局長など、いわゆる「ライン」に乗せ、「出世」させようとする傾向がある。ジェネラリストは、スペシャリストよりも上位だという、伝統的な考え方があるのかもしれない。しかし、高度化、複雑化する科学報道の世界で、このままの状態が続いていいと思えない。今後検討すべき課題ではなかろうか。

日本は、これから、どこへ向かうのだろうか?

司馬遼太郎は、著作「坂の上の雲」で、欧米を追いかける日本を、坂の上の欧米の雲(知識)に向かう存在と表現した。しかし、時が流れ、日本は、既に「雲」に到達し、その先に続く坂を、自らの足で、登る存在となった。

もはや模倣すべき対象はいない。

これからの日本は、独創性こそが、問われる時代となる。

そのためにも、私たちは、激変する科学や技術の状況を深く理解し、高い次元で市民と情報を共有し、自ら考える人材を育て、科学ジャーナリズムを、さらに進化させていく必要があると思う。

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「原爆が分けた人生の光と影」2020.8.6

75年前、私の父は朝8時過ぎに広島駅に着く列車に、友人達と乗っていたはずだった。ところが朝、突然の腹痛で、母親は、列車に乗るのを強く止めた。友人たちは、そのまま列車に乗り、全員死んだ。父は、自分だけ生き延びたことを恥じ、贖罪の気持ちから、時々、小さかった私たち子どもを、原爆資料館に連れて行き、その話をした。子供心に恐ろしい風景が胸に刺さった。その後、成長した私はNHKに入り、広島転勤となった。そこで南方特別留学生のドキュメンタリーを作った。東南アジアから集められた要人の子弟が、広島で被爆し、非業の死を遂げた物語。死ぬべき父が生き残り、その結果この世に生を受けた息子が、いなくてもいいのに被爆して死んでいった人々の番組を作った。不思議な因縁。ヒロシマは今も、私の心に複雑な影を落としている。

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硫黄島の不思議な体験


こんな話をしていいのだろうか?2009年に硫黄島で皆既日食生中継をしたとき、奇妙な体験をいくつもした。当然島には旅館などなく、自衛隊の宿舎にお世話になり、10日間?を過ごした。島には1万もの遺骨が埋もれ、耐え難い太陽の日差しが降り注ぐ信じられない過酷な環境。炎天下の中継準備でふらふらになって宿舎に戻り、食事をして別途に潜り込む。うとうとした瞬間、何者かが僕の頭頂部をガツンと殴った。気のせいではない。何度も殴られた。しかしふと見ると、僕の枕の1-2センチの上は、ベッドの壁。誰かが腕入れる隙間はない。気のせい?そうかもしれない。しかしあまりにもリアルな体験。あれは何だったのだろう?翌朝自衛隊の若者にそのことを告げたら、「やっぱり出ましたか」。そのような話はいっぱいあると告げられた。僕はその他の体験もすることとなった。

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硫黄島に原初の皆既日食を見た 2009.7.22

 

今日、太平洋戦争の激戦地、硫黄島の皆既日食中継から帰ってきた。硫黄島は、今なお各所に戦車や大砲の残骸、壕が残り、1万人以上の遺骨が眠るすさまじい島。栗林中将の執務室のある壕にも入った。身を狭めても通れない程の穴が地下に向かって延び、次第に蒸し暑さが増し、もう地上に戻れないのではないかと恐怖感すら覚える。言い古された言葉だがまさに地獄。よくぞこんなところに潜み戦ったものだ。
何の因縁か、その硫黄島が今回の皆既日食観測のベスト地点とわかり、国立天文台のチームのお世話になりつつ、自衛隊機で島に向かい、生中継にのぞむことになった。NHKスタッフは僕を入れてわずかに4人。重量や人数制限でこの数に絞り込んだのだが、通常あり得ないわずかな人数。装置とスタッフの不足で、東京からの映像の送り返しも見えず、コーディネーションの声も聞き取りにくい環境での中継だった。そして空からは突如スコールが降り、生放送の直前でも避難せざるを得ない、今まで体験したことにないきびしい状況となった。僕たちはずぶぬれになりながら、雲の合間にやっと皆既日食を目撃できた。
皆既日食の光景はすばらしいものだった。今までテレビで見たことはあったが、現場で見るとまるで違った。しかも今となると、中継環境の悪さが逆に幸いだったとすら思える。それは、結局、現場で「生皆既日食」を見続けることができたのは、僕だけだったからだ。カメラマンはカメラのファインダー越しの日食しか見ない(それが仕事)。天文台の先生方もモニターや太陽が送ってくるスペクトラム分析のモニターは凝視するが、「生日食」は見ない。僕のようなリポーターも普通は、太陽の話になるときはモニターを見ながら話すのだが、送り返し映像を見ることが出来ないので、僕はそのすべてのプロセスを肉眼で見届けることになった。テレビを見た人の中には、僕のコメントと太陽の画像がシンクロしていないことに気づいたヒトもいるだろうが、それはそういう理由からだった。
それにしても、肉眼で見る皆既日食はすごかった。太陽のドラマチックな変化とともに、周囲360度の状況が同時に変化するのだ。「日食は目で見るものではなく、体全体で感じるもの」と言ったヒトがいたが、まさにその通りだと思った。
息をのむような天体ショーの最中も、硫黄島は静かだった。皆既日食では、普通人間の集団から歓声や拍手が起こり、ざわめきに包まれるものだが、硫黄島で聞こえたものは、波の音だけ。硫黄島の前回の皆既日食は850年前。人も住まず、鳥と小さな昆虫しかすまない硫黄島上空を、きっと皆既日食は、このように、音もなく、悠然と通り過ぎていったのに違いない。
僕は偶然にも、硫黄島に「原初の皆既日食」を見る、おそらく初めてのテレビマンとなった。

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インターネットと透明人間

インターネットと透明人間(2007.1.14)

 

私は、いわゆる「インターネットいじめ」をうけたことがあります。

関係者が多いので、詳しい記述は差し控えますが、「凄絶」「残酷」などの言葉では、簡単に表現できないような、異常な体験でした。

いじめる第3者側は「祭り」とよんで、軽いノリで書いているらしいのですが、表現は次第にエスカレート。毒気を増し、ふだんは聞いたこともない罵詈雑言になっていきました。インターネット上に仲間がいるらしく、言葉が次の言葉に火をつけ、自己増殖する感じで、数十、数百もの中傷があらゆる方向から降り注いできます。その言葉に傷つき、ついに僕の友人の3人が心身症になり、ひとりは会社を辞めるまで追い詰められてしまいました。

私たちは、もし人を非難するときでも、相手の表情を見ながら話せば、普通そこまでいきません。ノンバーバルな言葉が全体を包み、血のかよった豊かなコミュニケーションが成立しているからです。ところがネットいじめの言葉は、普段は使わないひどいものばかり。おそらくその人たちも、日常生活では絶対使ってはいないのではないでしょうか。

 

なぜ、こんなことがおきるのでしょうか。

 

インターネット上で、文字のやり取りをする場合、情報量が少ないので、表現が先鋭化し、極端になっていく傾向があるという説明をよく聞きます。おそらくそうだろうと思いますが、私はその背後で、もっと深刻なことが起きているような気がします。

 

ある脳科学者が「ボディイメージ」という面白い話をしてくれました。

私たちの脳は、もともと手や足などからなる「人体」と強い絆で結ばれています。身体を取り巻く周囲の情報が、視覚、触覚、聴覚などの五感を通じて脳に入力され、脳の中に「イメージ」が生まれます。逆に脳は、作り上げたイメージを土台にして、指令を出力し、筋肉を操って、身体に移動を命じたり、物をつかませたりしています。このとき、脳の中には「ボディイメージ」と呼ばれる「身体の地図」が出来ており、その地図をベースにして、対象物との距離を測り、つかんだりいじったりしているというのです。

「座って半畳、寝て一畳」しかない、人間の小さな身体。傷を受ければ出血し、死にいたってしまうはかない人体。脳はそのことを熟知し、この身体をどのように操り、生きていこうかを常に考え続けているのです。脳は、身体の虚弱さのゆえに、命のはかなさも知っているのです。もともと人間の脳と心はそのようなものでした。

ところが、脳には、もうひとつの別の側面があることがわかってきました。

サルに道具を使わせると、脳内のボディイメージが道具にまで拡大される研究があります。今まで自分の身体を認識していたニューロン(神経細胞)が、道具を手の一部として認識し始めるというのです。

道具を操る職人が、よく、「道具の先に触れるものの形や硬さ、状態までもがわか

る」と言います。そのとき、道具の先は指先と同じで、脳内の「ボディイメージ」は、道具と一体になった「サイボーグ」のようなものになっているのでしょうか。

この理屈を広げていくと、色々なことが理解できます。

自動車を運転するときの「車間距離」や「車幅感覚」は、自動車が自分の身体のように思えているからかもしれません。タイヤを蹴られると、身体を蹴られたかのようにハラが立つのも、納得がいきます。タンカーを操縦する船長のボディイメージは、堂々とした巨大な鋼鉄製の船のイメージなのかもしれません。

この理論でいくと、インターネットに接続されたときの脳には、どのようなボディイメージが出来ていることになるのでしょうか。

脳は、クモの巣のように果てしなく広がった身体を得て、どこにでも自らの触角を伸ばし、世界を知り、逆に世界に働きかけることが出来ます。無数のサーバーには、無尽蔵の情報が蓄積され、森羅万象の物語、科学的成果、バーチャル住民との虚構の市民生活が詰まっています。そこには「座って半畳、寝て一畳」の虚弱な身体は、もはやなく、生物界の原則を越えた、今まで見たこともない、モンスターのようなボディイメージが出来ているのかもしれません。数百万年かけて人類が獲得してきた人体イメージは、まるで透明人間のように透き通り、淡い粒子となって消え去っているのかもしれません。

「人間とはそのようなものだ」といえばそうかも知れません。人類が、獲物をとるとき最初に棒を手にしたときから、その物語は始まっていたともいえます。しかし、科学技術が爆発的に進歩する中で、生物としての人間の約束事まで急速に塗り替えられ、「生存」にかかわる事態が発生しているのではないかと、私は時々、不安になってくるのです。

インターネットいじめは、そのような文脈で起きているのではないでしょうか。そこは「生物としての掟」が通用しない世界。天使のような人間と、悪魔のような人間が、むき出しで生息する空間なのかもしれません。

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