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「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

GALAC2020.11月号  

「情報発信者と科学:現代日本の科学ジャーナリズム」

(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長:室山哲也)

 

  • 「科学ジャーナリズム」と聞くとドキッとする

「科学ジャーナリズム」の現状についての原稿を依頼され、私は少々、困っている。「科学ジャーナリズムとは何か」について、教科書的には説明できても、釈然としない気持ちが残るからだ。NHKで科学番組や解説委員を40年もやってきたのに、いまだによくわからない。それどころか、ますますその気持ちが強くなってきた。私は、大学時代は法学部、いわゆる文科系の人間だ。NHKに入局後、何の因縁か、科学番組部のディレクターとなり、その後、多くの科学報道や、科学番組に携わった。教育テレビの科学番組も作ったし、クローズアップ現代で、宇宙開発やノーベル賞、サリン事件も報道した。NHKスペシャルで、脳科学のドキュメンタリーや、天文学、生命科学、原発報道にも携わってきた。それらを通じて、数多くの科学者や専門家とも向き合ってきた。

しかし、自分が「科学ジャーナリスト」かと問うと、どこか違和感がある。大学で物理学や数学、生物学を専門に学んだ、著名な科学ジャーナリストとくらべて、自分との違いを感じてしまう。

私が、文字を使って表現する記者ではなく、映像を使うTVディレクターだったからかもしれない。

「記者は狩猟民族、ディレクターは農耕民族」という言葉があるが、記者は刻々と変化する社会事象に切り込み、情報をまとめ、11秒でも早く、正確に伝達する仕事だ。一方ディレクターは、同じ情報でも、すぐには報道せず、種をまき、1年後に実った実を収穫して、番組(物語)として放送する。

もちろん私も、科学に関する番組やニュースに関わるとき、元情報に当たる。研究した科学者を何度も取材し、論文を読み、社会的価値としての位置づけを行い、もう一度内容を確認したのちに、放送する。

しかし、高度な科学情報の場合、理解するのも大変だし、わかりやすく伝えるのはとてもむつかしい。私は七転八倒し、研究内容を易しく解説してくれるほかの研究者の講釈も受け、再び、ターゲットの科学者の研究室のドアをノックすることもあった。

半分冗談だが、「正しく」報道するのは、簡単だ。論文をそのまま見せればよい。しかしそれでは報道にならないので、情報を翻訳したり、単純化したりしながら、視聴者や読者に伝える必要がある。しかし、ここで大きな壁に突き当たる。「正確すぎると伝わらず、単純化しすぎるとウソになる」からだ。本質を見誤らず、適切な言葉や表現で単純化し、情報を正確に伝えるのは、本当に至難のわざだと思う。

 

  • 日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)がめざすもの

私は、1年半前NHKを退職したのち、今は、日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)という組織に属している。この会は、19947月に、新聞、放送、通信、出版などの科学ジャーナリストたちが、組織を超えて交流し、刺激しあいながら、新しい価値を生み出そうと誕生した。現在では、新聞記者、テレビプロデューサー、出版の編集者のみならず、大学研究者、フリーランス、企業の広報、弁護士、主婦、学生も参加して、会員数200名を超えるまでになっている。

JASTJの活動は、月例会(講演会)や見学会、会報発行、出版、科学ジャーナリスト賞(その年の優れた記事、著作、放送、展示などを表彰)、JASTJ塾(後進の育成)、科学ジャーナリスト世界会議への参加など、多岐にわたる。

JASTJの長所は、会員と活動の多様性だ。放送業界で仕事をしてきた私は、私の分野とは違う様々な科学ジャーナリストたちの、取材の仕方、伝え方の多様性に触れ、感心するとともに、自分が、放送業界の人間だと、あらためて気づくのだ。

 

 

  • 科学ジャーナリズムの意義

私が、NHKスペシャル「人体:脳と心」の制作にかかわっていた時、取材先でよく「カニッツアの三角形」の話を聞いた。図に書かれているのは、折れ曲がった線と、円に切れ目が入った図形だけなのに、なぜか真ん中に白い三角形が見えてくる。これは、人間の脳が、断片的な情報を手掛かりに、勝手に作り上げた幻影だ。この現象は、人間の脳の機能のすばらしさとともに、脳の危険な落とし穴も示している。脳は、外部からの信号をもとに、脳内に「世界」を作り出す。そして、この仮想情報は、高次になるにつれて、その人が属している文化、国、環境に影響される傾向があり、異なる主観を生み出していく。この多様な主観を乗り越え、できるだけ客観的で、検証可能な認識に近づくために、科学的手法があるのだと思う。

 

あるアメリカのジャーナリストは、記者の基本は「マリスの除去」だと述べた。「マリス」とは「悪意」のことで、取材するとき、まず自分の心からマリスを除去し、透明な心で、謙虚に取材し、反論に耳を傾け、情報と正しく格闘し、整理し、伝えていく必要があるという。私たちの脳内に浮かぶ、悪意、善意、興奮、喜び、悲しみなどの情動を排除し、できるだけ客観的に、事実を共有できる良質な情報に、磨き上げる必要がある。科学ジャーナリストとは、そのような作業を必要とする人々であり、科学技術が日々進化し、多様化、複雑化する現代社会においては、ますます重要な存在となっている。

 

  • 放送メディアは科学ジャーナリズムを体現できるか

ところで、テレビなどの放送業界における「科学ジャーナリズム」は、新聞や雑誌などとどう違うのだろうか?

以前、月面探査機「かぐや」が、月面の様子をハイビジョンで伝えたとき、専門家との電話で、次のような話が出たことがある。

「室山さん、見ましたよ。私は、あそこで写っているものや事象は、すべて知っていました。でも、見てびっくりしました!」

私はこの言葉を聞いて、うれしくなった。「知っていたけどびっくりした」とは、映像が持つ存在感が、文字や記号や知識の範疇を超え、潜在意識に、何か強烈なものを伝えたからではないだろうか。私は、これはテレビマンとしての最高の誉め言葉だと思った。

また、プラネタリウムを作るとき、目で見える星以外の、見えない星もすべて投影するという話を聞いたことがある。そのほうが、宇宙空間のリアリティが増すというのだ。見えないのに、なぜリアリティが増すのだろうか?映像の世界には、文字とは違う、何か特別な潜在的な情報が含まれているのだろうか。

放送では、もちろん言葉や文字も使う。その部分は、新聞と同じだ。しかし、それに映像が加わった時、「科学ジャーナリズム」がどのように変質し、成立するのか?私には、まだよくわからない。もう少し、時間をかけて考えてみなければならない。

 

  • CGが作り出す世界

最近の放送を見ていて、気になることがある。

それは、番組やニュースで使われるCG(コンピューターグラフィック)についてだ。じつは私も、科学番組を作るとき、やたらとCGを使ってきた。今から20数年前「NHKスペシャル脳と心」のディレクターをしていた頃、CGは最先端の表現手段として注目されていた。当時、CGと言えば、メタリックな映像が主流で、リアルな映像との合成が、やっとでき始めた頃だった。その後、コンピュータ技術の目覚ましい進歩で、どこがCGかわからないほどリアリティを増し、今や、テレビ業界では、CGを使わない日はないほど、日常的なものとなっている。

しかし私は、この状況に、漠然とした不安を覚える。

例えば、科学番組やニュースで、脳のメカニズムを説明するとき、ポンチ絵程度なら問題はないが、本物と見間違えるようなCGで説明した時、それが、虚構なのかリアルな世界なのかがわからなくなってくる。

特に、大型の科学番組などで、神経細胞の世界を、ダイナミックな視点移動で説明したり、神経伝達物質の様子を、色を付けて映像化するなど、一大スペクタクルとなっている。まるで、見てきたような感動があり、何よりもわかりやすい。しかし、所詮、CGは作り物である。実際の脳は、中身がぎっしり詰まっており、もっと複雑で、混沌とした世界だ。

もし子供がこのテレビを見て、脳は、そのようなものだと思い込んだら、どうなるのだろうか。きちんと整理された、知識の体系を学ぶのは、いいことだとは思う。しかし、現実の世界に直面し、その複雑さと存在感に触れたのちに、CGで理解する順序ではないだろうか。現実を体験しないまま、疑似映像が多用され続けていくとしたら、この世界に対する敬意や、畏怖の念が忘れ去られ、本当の意味での「科学的思考」を身につけることが出来なくなっていくのではないかと思う。

 

 

  • 未来の科学ジャーナリズムを育てるために

科学ジャーナリズムが、今後、成長するには何が必要だろうか?それは科学ジャーナリズムを支える、スペシャリストの育成に尽きる。海外で取材すると、50代や60代の科学ジャーナリストたちが、生き生きと取材活動を続けている様子をよく見かける。彼らは、知識は豊富で、人脈も豊か。時には専門家が一目置くような発言もする。一方、日本からのジャーナリストは、どちらかというと、若い人が多く、その厚みや存在感において、やや劣っていることを否定できない。

放送局勤務の私の経験から言うと、一般的に、人事の方針は、ジェネラリスト重視。優れた科学ジャーナリストも、部長や局長など、いわゆる「ライン」に乗せ、「出世」させようとする傾向がある。ジェネラリストは、スペシャリストよりも上位だという、伝統的な考え方があるのかもしれない。しかし、高度化、複雑化する科学報道の世界で、このままの状態が続いていいと思えない。今後検討すべき課題ではなかろうか。

日本は、これから、どこへ向かうのだろうか?

司馬遼太郎は、著作「坂の上の雲」で、欧米を追いかける日本を、坂の上の欧米の雲(知識)に向かう存在と表現した。しかし、時が流れ、日本は、既に「雲」に到達し、その先に続く坂を、自らの足で、登る存在となった。

もはや模倣すべき対象はいない。

これからの日本は、独創性こそが、問われる時代となる。

そのためにも、私たちは、激変する科学や技術の状況を深く理解し、高い次元で市民と情報を共有し、自ら考える人材を育て、科学ジャーナリズムを、さらに進化させていく必要があると思う。

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