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マスコミから見た放射能問題(環境と健康2012年12月号)

(要旨)
東日本大震災による福島第一原発事故は、日本にあらゆる側面の混乱を引き起こした。その中の一つに「放射性物質の人体への影響」を巡る混乱があった。原因は「事故は起きない」という原子力安全神話にさかのぼるが、それに加えて、分かりにくい科学的事実をどのように伝えるべきかという「科学コミュニケーション」の不足があったように思う。そしてこの「科学コミュニケーションの不足」は行政、専門家、そしてマスコミの対応不足、力不足に大きく起因している。この論説では、主にマスコミの側面からその問題点や今後の課題を探りたい。しかし、もとより「マスコミ」と言っても幅が広く多様で、この意見は一テレビマンの個人的なものだという前提でお話ししたい。

● 混乱の中で行われた原発報道
今回の原発事故の報道は、尋常ならざる状況下で行われた。2011年3月11日に発生した東日本大震災以降、NHKで、3月中に行われた関連ニュースや番組の総放送時間は400時間を超え、地震、津波、そして原発事故による被害の拡大との格闘だった。原発事故による放射能汚染問題は、そのような複雑な巨大災害に絡む形で進行していった。NHKはチームを割り振り、それぞれの状況に対応し、字幕放送や外国語副音声、インターネットとの連動など複合的な放送を展開したが、「地震津波災害」「原発事故」「放射能の影響」の三つどもえの中で、前代未聞の複雑かつ多面的な放送業務となった。その後課題は、電力供給など「エネルギー」のあり方にも飛び火し、複雑さはますます拡大。現在も続いている。

● 放送への批判
国民の不安や心配はピークに達し、放送へのさまざまな注文や批判が出た。私が個人的に感じたものを列挙してみよう。
(1)「直ちに影響はない」報道への批判
朝のニュース番組のタイトルに「放射線、こんなに怖いのにやっぱりわからない」というのがあった。このタイトルは、市民が原発事故による放射能問題をどのように感じているかを、端的に示している。放射線の人体への影響は「直線仮説」による説明が一般的だが、100ミリシーベルト以下の低線量被ばくや内部被ばくについては、わからないことが多く、人体への影響は判別できないとされる。しかし判別は出来ないけれども、放射線被ばくは限りなく0にするのが望ましく、除染などの努力が必要ともいう。
ここで、まず市民は混乱する。一体放射能の中での生活はどこまで安全なのか?食品の汚染などでいわれる「直ちに影響がない」とはどういうことなのか?心配ないということなのか?そのうち危険だということなのか?「危険なのか」「安全なのか」一体どちらなのかということである。
科学的には二者択一で考えることこそ問題で、「リスク」を正しく理解していないということになるだろうが、行動は具体的で、はっきりした結論や指示を求めてくる心情は痛い程理解できる。このような曖昧な情報の中で、「放射線の人体の影響」を危険視する専門家の意見が出たりすると、ますます不安は増大し、不信感が拡大するという結果につながっていったのである。
(2)報道は情報を隠しているのではないか?
「直ちに影響がない」報道以降、報道は東京電力や政府と結託して「情報操作をしている」のではないかという批判が出た。原発事故後マスコミに登場する専門家が「問題ない」「心配ない」と繰り返す中、事態はますます深刻化していった。そのプロセスを見るにつけ、マスコミはかつての大本営発表のように、入手した情報を制限して、都合のいい情報だけ報道しているのではないか?マスコミは原発事故の本当の姿を伝えていないのではないか?いやわざと伝えないようにしているのではないか?という不信感が増大した。
やがてその不信感は、マスコミから報道されるその後の情報の信憑性そのものにも影響し、問題が深刻化していった。そしてこの傾向は、「マスコミ」と「専門家」が一体化した者に対して向けられ、やがては「科学(者)」そのものへの不信感にもつながっていったのである。
(3)住民から遠ざかるマスコミ
原発報道を続けているうちに「マスコミは汚染地帯からなぜ逃げるのか?」という批判が出てきた。今回の事故では、例えば「屋内退避区域」のように、一定の放射能汚染地帯で住民が暮らし続ける地域があるにもかかわらず、マスコミはその区域での十分な報道を避け、逃げているのではないかという批判である。マスコミ各社は、汚染地帯での取材では、一定の内規を持ち、取材制限やローテーションを決めているところがほとんど。一定の被ばく量に達したら取材を打ち切り帰社させ、新たな記者が取材に入るというシステムをとっているところが多い。しかし、住民から見たら、同じ人間が住んでいる場所なのに、マスコミがそれをさけ、逃げているように見える。「一体マスコミは住民の味方なのか?」という不信感につながっていく構図となる。
以上3つの批判をあげたが、まだあるかもしれない。また私の分析と違う意見もあるかもしれない。しかし、いずれにしても、このような3つの要素が絡み合い、悪循環を起こして、深刻化していったのではないだろうかと思う。

● 放送局の二つの情報ルート
ここで基礎知識を一つ。
マスコミが取材する時の「情報のルート」について説明したい。よく省庁の関係者が「情報をマスコミに流した」というが、それはマスコミ(放送局)の一部(記者)にすぎず、全部に流した訳ではない。従ってその場合、放送局の一部にしか情報は伝わっていない。
NHKの場合、放送に携わる人種は、大雑把に言って2つ。記者とディレクターである。記者は記者クラブに属し、各省庁などでニュースを扱う。ディレクターは記者クラブには属さず、番組作りの為の取材を行い、構成演出し、番組を通じて情報を社会に流す。よく「記者は狩猟民族」「ディレクターは農耕民族」といわれるが、「記者」の重要な仕事は、ニュースをいち早く察知し、正確に情報化し、速やかに社会に伝達すること。これに対してディレクターは、情報を入手はするが、それを多面的に検証したり構成したりして、一つの作品に仕上げる仕事をする。その点では、種をまき育て、実を刈り取る農耕民族に似ている。もちろん2つの人種の間に位置する仕事も多くあるが、「記者」と「ディレクター」は放送局の両輪のような関係で、いずれも重要といえる。放送局に情報を流すためには、記者クラブだけでなく、もっと多面的なインプットの仕組みが必要といえるかもしれない。

● 報道が直面した壁とは?
さて、今回の原発事故関連報道において、報道に携わる者は、多くの「壁」や「課題」を実感した。それを整理してみよう。
(1)「緊急情報伝達システム」の限界
原稿の最初に書いたように、今回の災害は複合的様相が強く、情報が錯綜し、その中で複雑でわかりにくい「原発事故による放射能汚染」という状況が起きた。各マスコミは、緊急報道に対応する為のシステムの充実に努めてはいるが、今回の災害、とりわけ初期の状況はあまりにも緊急的色彩が強かったように思う。通常情報は、放送の場合は、現場(1次情報を持つ組織:今回は東京電力や関係政府機関)から記者に伝えられ、記事として編集され、放送局で映像や解説が付加されて放送に至る。しかし今回は、1次情報があまりにも限られていた。事故が拡大する原発内部で、一体何が起きているのかがわからず、そのあやふやな状況の中で記事にしなければならない。現場に行って確認しようにも危険で近づけない。取材対象となる専門家も混乱している。そのような状況下でのきびしい報道が続いた。
状況をさらに深刻にし、報道をスムーズに行えなくした根底には、「原発事故は起きない」という原発神話がある。過酷な原発事故を想定せず、このような事態を想定せず、対応するマニュアルも完全なものが出来ていなかったのだ。NHKはその後、緊急時の対応マニュアルをつくりなおし、リスクに強いリモートカメラなど対策を講じつつあるが、「緊急時の情報」伝達システムは、マスコミのみの問題ではなく、1次情報を提供する政府も含めた大きな視点によって作り上げる必要があると思う。
(2)専門的情報をどう伝えるか?
私はもともとプロデューサーで、科学番組を長く制作してきたが、専門的情報を扱う科学番組で最も苦労することは「正確すぎると伝わらず、単純化しすぎるとウソになる」ということだ。マスコミには情報伝達の物理的限界がある。新聞には紙面の大きさ、テレビでは放送時間の制約がそれにあたる。またテレビの場合、番組を見る視聴者は一般市民で、専門知識がない場合がほとんど。難解な科学的情報を伝えるには、どうしても単純化する必要がある。専門家が見て十分に納得できる説明をすると、おそらく市民には「何を言っているのかわからな」くなり、結局情報そのものが伝わらない状況が生まれる。しかし一方で、わかりやすくする為に、映像や比喩をまぶし、おもしろおかしく単純化すれば、科学的事実や研究の本質が歪められ、間違った情報伝達になってしまう。「単純化するが本質はきちんとおさえ、科学的事実の骨格を伝える」ことを目指さなければならないが、実際には「言うは易く行うは難し」。科学や技術が複雑化、専門化する中で、マスコミのおかれた科学報道の状況はますます困難なものになってきている。
(3)情報の多様化をどう図るか
メディアには様々な特性がある。テレビは映像を使う為、視覚的情報に強く、ドラマなどの芸術性のある番組とともに、生中継などでは圧倒的な強みを持っている。新聞はテレビには時間的に遅れるが、イラストとともに豊富な文字情報によって深い記事や論説が可能。そして最近発展しているネットは、誰でもどこでも情報を発信でき、情報量も制限がない為、極めて多様な情報提供が可能になるが、一方でマスコミのような編集チェックシステムが弱く、玉石混淆の情報になりやすい危険性もある。現代社会はメディアの多様化が進み、様々な手法で情報が提供されているが、基本的には、市民が多様な情報を入手し、自ら判断できることが望ましい。メディアの各特性を駆使し、それぞれのメリットを融合させた、成熟した情報社会に育てていくシステムが必要がある。

● 今後どうすべきか?
では今後、何をどのようにしていったらいいのか?私論をまとめてみよう。
(1)「わかったこと」「わからないこと」を区別する
まずやらなければならないことは、「わかっていること」と「わからないこと」を峻別して報道することである。「当然ではないか」と思われるかもしれないが、これが実際には難しい。なぜなら取材者は、専門家に対して「何がどうなっているのか」をしつこく問い、その論理のフレームをクリアにしようとし、その勢いに押されて、専門家も無意識に「なんとか説明しよう」とし、ついつい理屈付けをしてしまう傾向がある。特にテレビスタジオのような非日常の場所ではその圧力はさらに強くなり、「わからない」と言いにくくなる傾向がある。私は、今後は「わかったこと」「わからないこと」を伝える時は、いずれもその根拠を明確にしつつ伝えていく努力が必要だと思う。そして、真の意味での客観的な情報を目指す必要があるのではなかろうか。
(2)リスクをきちんと伝える
今回の原発事故では、たとえば「放射能の影響」など、リスクを、市民にきちんと伝えることが出来なかった反省がある。リスクが正しく把握できないので、かえって不安が増幅し、混乱が拡大していったのではなかろうか。その視点からいえば、今後の報道は、状況が抱えるリスクを、できるだけきちんと伝える必要があるといえる。
しかし、その時、ひとつ落とし穴がある。ただリスクをそのまま伝えればいいというものではないからだ。例えば、医師が患者に、例えばがんの告知や生存率を伝えるとき、インフォームドコンセントの考え方では、客観的データをそのまま伝え、あとは個人の判断をあおぐという構図になっている。しかし、真のインフォームドコンセントは、その情報をきちんと把握し、正しく向き合い、判断、行動できる患者の主体性とセットでなければならない。リスクをありのままに伝える時、そのリスクにどのように向き合うべきかという「知恵」も同時に提示する必要があるのではないだろうか。放射線のリスクについても、客観的なデータを機械的に伝えるだけでは、「伝えた」というただのアリバイ作りに終わる危険性がある。リスクの数字をどのように理解し、向き合うべきかといった「知恵」も同時に伝えなければなんの意味もないのではなかろうか。
(3)専門的ジャーナリストの育成
日本のマスコミの人事評価システムは、ジェネラリスト優先の傾向がある。最近はだいぶ良くなったが、それでも欧米と比べると不十分だ。例えば外国で取材活動をする時、年配だが、専門性が豊かな優れたジャーナリストによく会うことがある。彼らはその専門性によって大きく評価され、ジャーナリストとして大成している。しかし日本のマスコミ(特に大マスコミ)では、スペシャリストよりもジェネラリストに重きが置かれ、人事的評価や待遇も良くなる傾向がある。若くして優秀な記者は、早い段階で幹部候補となり、ジェネラリストとなっていく。その結果、優れたスペシャリストが育ちにくく、いざという時、専門的情報を熟知し、適切に対応できる体制がとりにくい。専門性に優れたジャーナリストを育てるシステムをきちんと作り上げていかないと、今後も同じパターンが繰り返されることになる。
(4)科学者の社会参加と学会のリーダーシップ
責任はマスコミばかりではない。科学者や学会の責任も大きく、多くの課題を残している。例えば、放射線と人体への影響については、専門家の間の論争に決着がついておらず、市民もマスコミもそれに翻弄される構図だ。学説の対立が正しく学会で議論されず、あるいはその結果が社会に対してきちんと発信されていないと(そのように見える)、社会もマスコミも混乱する。お互いの悪口をウラで言うばかりでは、状況はますます混乱し、市民はうろたえてしまう。学会がもっと存在感を発揮し、わかりやすい情報の提示をする必要があるのではないだろうか。また専門家は、市民に対して説明することが苦手で、説明を聞いてもわかりにくい。中には「わからない市民が悪い」と開き直る専門家さえいる。しかし、それは大きな間違いだ。これからの専門家は、市民に説明する言葉と能力をきちんと持たなければならない。そして真の意味でマスコミと連携して、健全な情報を社会に対して発信していく必要があるのではないか。
(5)市民のリスク教育
マスコミや学会の改善は、市民の意識の成熟と連動していなければならない。今回の原発事故では、市民のリスクに対する認識についても大きく考えさせられた。「原発安全神話」は、ある意味、原発は絶対安全という政府の説明と、それを求めた市民の合作だともいえる。もとより科学技術に絶対はなく、それだからこそリスクに対する認識と行動規範やルールが必要といえる。しかし、日本では、そういう現実的認識が欠け、一種の「共同幻想」が形作られ、物事が進行してきた。学校教育では原発や放射能のリスクに対する教育は行われず、リスクときちんと向き合い、理解し、行動できる成熟した市民が育ってこなかったといえる。今後は、学校教育の中でもリスク教育を実践し、賢い市民が増えていく必要がある。また、メディア情報を鵜呑みにせず、自らの思考で判断できる目を育てる、いわゆるメディアリテラシーも市民の間で育っていく必要があるように思う。

● まとめ
現代社会はリスクに満ちた社会といえる。環境問題や化学物質の汚染など、同様のパターンがあちこちで展開している。曖昧で、目に見えにくく、将来にわかって影響が及ぶかもしれないリスクに、私達はどう向き合えばいいのか。市民が正しい科学的「目」を持ち、判断し、行動しながら、専門家、政府、企業、マスコミと連携し、成熟した社会をつくることを目指すべきだ。今回の原発事故は、不幸な事態ではあったが、「災い転じて福となす」きっかけとしたいと思う。

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