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「番組つくりから見たコミュニケーションの極意」2011.2.23

  はじめに

  「脳には3匹の動物が住んでいる」と言われる。まず最も深いところに、血圧や呼吸をつかさどる脳幹などの「爬虫類の脳」、その上に喜怒哀楽をつかさどる大脳辺縁系などの「馬の脳」、その上(もっとも表面)に、見たり聞いたり考えたりする知的な情報をつかさどる大脳新皮質「ヒトの脳」が3層になっている。人間は、進化のプロセスで、次第に機能を建て増しし、脳機能を複雑化させてきたが、「コミュニケーション」を論ずるとき、どのレベルの話をしているのかを理解して進めることが重要だとおもう。私たちは、よく表面の「ヒトの脳」のレベルの情報処理や伝達を、コミュニケーションと錯覚するが、それは浅い見方で、その下にあるレベルの脳の情報処理も、同時に考えて進めなければならない。

  わたしは、テレビ局で、ディレクターとプロデューサーを30数年やってきたが、テレビ番組つくりは、この脳の中の3匹の動物を理解していなければ成功しない。人間の知的な興奮や感動は、この3匹の動物が織りなす「理性」と「本能」が絡み合って起きるもので、それがないコミュニケーションは、ただの記号の伝達に過ぎない。もちろん、ただの数値の伝達ならばそれでいいのであろうが、いやしくも「プロデュース」をしようというとき、そのような表面的な取り組みでは全く不十分。人間の脳を駆け巡る重層的な情報を理解しながら、物事を組み立てたり、伝達する時、奥深いコミュニケーションが成り立ち、その結果としてのプロデュースも成立するのではないだろうか。

  ということで、今回は、私がテレビ番組つくりの中で感じてきたことをまとめて記述したいと思う。マスコミにはテレビのほかに新聞、雑誌、WEB、その他もろもろの形態があり、テレビといえども千差万別(放送番組、ニュース、青少年番組、生活情報、スポーツ、芸能、科学などなど)なので、私が述べる話は、その中の主に「科学番組」を通じての経験であることをあらかじめご承知おきいただきたい。この限られた世界の話から、どのような普遍的価値を見出すかは、この文章を読んでいる方の想像力にかかっている(決して逃げているのではありません。少しは逃げていますが。。)といってもよい。

  テレビ番組制作の順序

(1)  企画を立てる

  あらゆる事業がそうであるように、番組つくりは「企画」をつくるところから始まる。そもそも、どのような番組を、どんな目的で、どんな切り口で、誰に向かって作るのか。そのためにはどのような準備や体制が必要か。どのようなスケジュールで行うのか。あらゆることを、一つの企画に落とし込んで、まとめていかなければならない。企画書は、それを採択する人を説得し、了解を得なければ実現しない。そのためには一人よがりでなく、十分な説得力と魅力を持っていなければならない。

  テレビ番組は非常に多くの人を対象に放送される。視聴率1%は100万人以上に相当するため、視聴率10%の番組は1000万人の人に対してのメッセージということになる。このため、ほかのメディアに比べても、基本的に「公的」な色彩を強く持っている。NHKの場合、特に情報番組的要素の強い番組の場合、制作者が、現在の日本や世界、そして社会をどのような視点で見ているかが大きく問われる。ジャーナリズムの基本は、私たちを取り巻く社会が、今、どのように、どこに向かって動いているのか、その中で、私たちとどうかかわっているのかの認識を持つことだ。だからわたしは、どのような番組をつくるときも、大きく言えば、「歴史(人間の歴史、自然の歴史)はどのように流れてきたか」「人間はどのように進化してきたか」「人間とは何か」「人間はどのように生きるべきか」といった根本的な施策が、制作者の心の底を流れていなければならないと思っている。そういう世界観に支えられて、情報番組も、娯楽番組も、教育番組も作られ、位置づけられるべきだと思う。なぜかといいうと、私たちは常に歴史の子であり、その影響の中で変化し、個性を発揮し、歴史を作り変えている存在だからだ。よく、「鳥の目」「虫の目」というが、企画を立てるときも、細部にこだわる目と、全体像をとらえる目がなければ、生き生きとしたそして奥深いものにならないと思う。

  では企画を立てるとき、具体的にどのようなことに留意すべきかを列挙してみよう。

(A)   「テーマ」を決める

番組をつくるとき、まずテーマを決める必要がある。そもそも番組は、何を扱うのか。そのテーマを、どのような社会背景で、どこの何を核にして、どのように番組を展開し、何をどのように伝えるのかを決めなければならない。番組にはいずれ「タイトル」がつくが、タイトルは、あらゆる意味でその番組のエッセンスが凝縮されたものなので、迷った時は、どのようなタイトルになるのかを考えてみるのも有効である。タイトルにしてそれを眺めてみると、自分の企画がいかにあいまいで、しぼりこみに欠けているかがわかる。頭でぼんやりと考えるよりも、実際に文章に書いてみるとわかるのと同じである。

(B)   「切り口」は何か?

テレビや新聞は、WEBと違って、情報を扱うとき、時間や紙面といった制約に縛られている。あるテーマに沿った情報を、無制限に伝えるわけにはいかない。しかも非常に多くの人に向けて発信する以上、情報を明快に伝達しなければならず(できなければ視聴率も下がり、紙面は売れなくなってしまう)、どんな切り口で情報を切り取るかが、大きく問われることになる。実は、この切り口こそ、番組の個性であり、制作者の創造性を示すものなのだ。「切り口」とは、あるテーマを、どのような角度から切り取り、取材し、編集して伝達するかの「方法論」そのもの。これがきちんとしていないと、あふれるような情報を整理し、生き生きと再構成し、命を吹き込むことはできない。私は、WEBは紙面制限がなく、一つのテーマを多面的に十分に伝えることができる優れたメディアだと思っているが、テレビや新聞のように、表現する事件や文字数に縛りがあるときこそ、情報は練り上げられ、整理され、より高度な世界に到達できると思う。まとまりのない話をだらだらと話しても、誰も聞いてくれないように、情報を研ぎ澄まし、魅力的なものにしていかないと、他人は目を向けてくれない。「切り口」は、制作者と社会を結ぶトンネルであり、情報に命を吹き込んで輝かせるための、不可欠の要素だと思う。ホースで水を飛ばすとき、出口を狭く絞れば、遠くに飛ぶのと同じである。

(C)   社会性、普遍性はあるか?

番組は多くの人に向けたメッセージ。たとえば視聴率1%の番組でも、100万人以上が見ているわけで、100万通りの状況のなかで、視聴されているわけである。番組を多くの人に見てもらう場合、伝達するテーマに、ある意味での社会性がないと成立しない。たとえば「株」の番組は、何らかの形で株や経済に興味のある人が見るし、子育て番組は、子育て真っ最中の人や、それを支援している人が見るだろう。扱うテーマが大きく、どのような人でも興味を持つとき、必然的に視聴率が上がることになる。このように、番組には常に「社会性」や「普遍性」が求められ、使われる言葉も、できるだけ多くの人の心の届く練り上げられたものでなければならない。その意味で、制作者には、社会を見る目や、社会を生きる人との共感力がなければならない。さらに、その人たちに伝達する情報が魅力的なものになるための才能と、努力が、当然ながら要求されることになる。

(D)   Something new

NHKスペシャルが始まるとき、その合言葉に「something new」という言葉があった。番組を作るにあたって、必ず何かひとつ(二つでも良いが)新しいことに挑戦しようというのだ。それは「新しい情報』でも、「演出」や「切り口」でも、「新しい映像表現」でもよい。テレビ番組が社会の中で生まれ、社会の中で機能するものである以上、常に何かの新しい側面を持ち、社会に働きかけて、新しい状況を作り上げていくべきだという、制作者たちのプライドがそうさせたのだと思う。しかしこれは、言うは安くおこなうは難しで、容易なことではない。新しいと思っていても、似たようなことを既に誰かがやっていたり、どこかで報じられていたりするからだ。最近、インターネットが発達して、企画や論文をネット検索で探した情報を鵜呑みにして作ったり、中にはコピペをしてつぎはぎ捏造する人があると聞くが、このようなことは、クリエーターとして、最も恥ずべきことだということを肝に銘じるべきである。番組は、常に自分の足を使ってあちこち歩き回り、自分の嗅覚で情報を探り出し、自分の目と耳で確認し、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現するのが基本。その意味でも、「something new」という言葉からは学ぶものが大きい。

(2)  予算をとる

当然ながら、どんな優れた企画でも「先立つもの」がなければ、番組制作は出来ない。NHKの場合はスポンサーがいない(スポンサーは国民)ので、特定の産業や企業の意向を気にしたり、営利活動に反したりしてはいけないなどという制約を受けない。民放の世界では、優れた企画もさることながら、お金がつくかがまず重要で、お金がなければ何も始まらない。極端な場合、企画はたいした事なくても、お金さえつけば、番組が成立する場合もあるだろう。NHKはそのようなことを考える必要はないが、こんどは国民が納得するかどうか、あるいは社会的に意義があったり、社会が求めているかどうかといった、別のものさしが重要になる。いずれにしても、民放やNHKを問わず、その企画を受け入れてもらうために企画の採択者を説得し、納得させ、財布の紐を緩めさせなければならない。この点では、企画を立てる人は、独りよがりにならず、常に企画が成立するフィールドの状況を把握し、ニーズに応じた言葉使いや視点を提供しなければならない。プロデューサーは優れた営業マンでもなくてはならず、それを的確に表現、伝達できるコミュニケーターでなければならない。

(3)  構成を立てる

  さて、運よく企画も通り、予算もついた。いよいよ番組つくりが始まる。テレビ番組を作るとき、最初に直面するのは、企画が実際の社会や状況に、きちんと通用しているものかどうかということである。「えっ!」と驚くようなことを書いているが、実は、企画と通すとき、通すことばかり考える余り、「いいことばかりを書いて」いて、対象とする世界から遊離している場合がある。企画に盛り込まれている情報が、事実の集約ではなく、製作者の願いであることがあるのだ。このような企画は、後に大きなトラブルを起こすことになることが多い。下手をすると「詐欺まがい」のレッテルを貼られる場合もある。しかし、集めた事実だけを羅列しても、魅力のない企画になるわけで、製作者の意図や意志を織り交ぜ、事実ともきちんと向き合い、事実の背後にある本質を捉えている企画書は、優れたものであるともいえる。このように、企画が通り、行動が始まるとき、制作者の力量が表面にあらわれ、評価されるという淘汰の状況が始まる。その荒波に飲まれ沈没していく制作者もいれば、見事に自分の船を率いて波を乗り越え、堂々としたメッセージを構築していく人もいる。いずれにしても、企画に基づいて実際のアクションを起こすとき、社会ときちんと向き合いつつ、プロデュースの方向を指し示した優れた企画書は、製作スタッフの最強の羅針盤であり、優れた作品つくりの原動力になるのである。

  番組を作るためには、まず構成を書く必要がある。「構成表」には様々なタイプがあるが、NHKの場合は全体の意味の流れ、映像の流れ、音声の流れ、取材先や撮影方法、時間経過などの要素が分かるように表にまとめ、スタッフに分かりやすく作るように指導している。ディレクターによっては、非常に細かく構成表を書く人もいるし、大まかな流れを書き、現場で肉付けをしていくタイプの人もいる。いずれにしても構成表は、現場にカメラを持っていき、どのような状況で何をどうとるのかの設計図なので、「取材」と濃密に関連したものといえる。構成表は、現場で使えなければ意味がない。制作スタッフの意思を統一して、番組という編み物をありあげるための、具体的な道しるべである。コレが混乱していると、何をしているのかが分からなくなり、あとで大変な状況になるのである。その責任は、番組を企画したプロデューサーにあり、直接には、その任を受けて制作に当たるディレクターにあるのである。

  構成を作るときに重要なのは、「問題意識で構成する」ということ。濃密な取材に基づくことは当然だが、優れた取材を可能にするのは、深い問題意識だ。そのテーマの何にどう切り込みたいのか、どこに疑問を感じるのか、一体何を知り、描きたいのかということは、制作者の脳の中にイメージとして生まれる。自分は今何のために取材しているのかという「旗印」こそ、問題意識だ。だから、構成表は、基本的にま問題意識で構成していくべきだと私は思う。科学番組を作るとき、新人のディレクターが持ってくる構成表を読んで、がっかりすることがある。色々取材をして、分かったことだけを並べて構成してくるからだ。たとえが「脳」のように未知のものが多い素材の場合、分かったことだけを並べても構成される線が細く、貧弱な番組になってしまう。脳にはなぞが多いが、その背後にあるミステリーや感動、驚期こそ重要であって、科学で分かったことはその一部に過ぎない。大きなナゾがあり、何故だろうと肉薄し、依然としてなぞで終わっても、そのプロセスがかもし出す迫力やにおいは、視聴者を魅了するだろう。わからなければ「まだ分からない」といえばいいのだ。問題意識で構成し、あらゆる手段を駆使して取材し、どこまで到達できるかが勝負である。構成表は、その航海をするための海図だといえる。

(4)  取材する(ロケする)

  さて、構成表も完成し、いよいよロケが始まる。ロケと取材は密接に関連している。ロケを率いるディレクターは、ロケする前に濃密に取材し、どこにどのような人がいて、何があり、何が面白いのか、何が面白くなりそうかを熟知していなければならない(いなければ再び大混乱)。私はプロデューサー時代に、よくディレクターに「もしカビの番組を作るなら、日本で一番かびのことを知り、愛しているディレクターになりなさい。」といっていた。そのためには、まず日本一のかびの権威に会い、かびについての知識を徹底的に吸収し、かびとそれを取り巻く全体状況を的確に把握しておく必要がある。このような取材が基礎になって、はじめてきちんとした構成表が出来、ロケに及ぶことになる。

  しかし、やってみると、実際はそんなに甘いものではない。きちんとできたはずの構成表を持ってロケにいっても、思うとおりに事は進まない。インタビューひとつとっても、自分がひきだしたいことを、相手が言ってくれるとは限らない。無理やり言ってもらっても、その人の目は死んでおり、言葉は平坦で、とても使うことは出来ない。「現実が反逆する」という言葉があるが、取材者とは、現実と常に戦っている人のことなのだ。取材やロケをする人間が、現実と向き合い、正しい化学反応を起こしてはじめて、魅力的な番組に繋がる。構成表は、いくら良くかけていても、現実に通用しなければ意味がない。ただの絵空事になる。したがって、現実と構成にずれが生じた場合、構成が悪いということになり、現実の状況に合わせて構成を変えなければならないことになる。わたしも新人時代には、宿に帰って頭を抱え、先輩カメラマンの指導を受けながら、何度も徹夜で構成を立て直したことがある。構成を立て直し、ロケにいき、うまくいかなければ、また構成を立て直す。その果てしない繰り返しの中で、社会を見る目、人間を見る目、交渉力、そして構成力が鍛えられていく。「想い」がなければたしかに番組は作れない。しかし「思い込み」は番組つくりの大敵。番組制作者は、その意味では、自分の理念と現実のハザマで格闘し、ある世界に到達しようとする登山家に似ているかもしれない。

  ではロケのときの具体的な方法論を列挙してみる。

(A)映像は「写す」のはなく「撮れ」!

カメラでロケをするとき、被写体の何を撮影するのかをイメージし、主体的に情報を切り出していかなければならない。カメラは回せば確かに写っているが、何を撮ろうとしているかが重要。今撮影している映像が、何を伝えるために撮影されているのか。そのためのカメラポジションやレンズ、距離、サイズ、パンのスピードなどなどは、伝えようとしている趣旨にしたがって連動しているか。ジャーナリズムでよく言われることだが、「客観的情報」などは存在せず、「主観的情報」しか存在していない。どのようなニュースを選び、いつどのようにアクセスし、どのような人物や自称と接触して、どのように取材するか、またその事実をどのような映像とコメントで伝えるのかは、全て主観によるものである。ジャーナリストはその宿命を知った上で、自分の認識や思想を研ぎ澄まし、多面的視点を失わず、果てしない精神的闘争の中でメッセージを伝えなければならない。そのように思うとき、カメラがどのような意志で何を撮ろうとしているかは、映像メディアとしてのテレビにおいては、決定的に重要な要素となる。

(B)「一転突破全面展開」の映像とは何かを考えよう

私は、ひとつの番組が名作になるかどうかの分岐点は、取られた映像の中に、全体のコンセプトを凝縮したシーンやカットがあるかどうかということだと思っている。名作と呼ばれる映画を語るとき、論理展開や全体のつながりよりも、映画の中の山場や、忘れられないシーン、言葉を語ることが多い。「あそこで主人公がこんな表情で、こんな一言を言うんだよね。」とか「あのシーンは最高だった」とか、映画の一部分が、鮮明によみがえってくる。要するにそのシーンや言葉は、映画全体のコンセプトを凝縮したシンボル的存在であり、高く美しい山の頂のような存在といえる。ロケをするとき、そのようなシンボル的シーンに遭遇することがある。遭遇するというよりも、ディレクターたちの努力で、そのシーンに巡り合っているのかもしれないが、いずれにしてもその瞬間を見逃さず、きちんとカメラに収める事が重要といえる。そのシーンこそ番組のコア素材であり、その一点を通じて、番組のドアが開き、より広く深いメッセージに展開していく、「宝物」なのである。

(C)撮影しながら編集する

ややテクニカルな話になるが、キャリアの少ない人は、ロケで映像を撮影するとき、この映像は番組のどの部分で、どのように使われるのかを、考えながら撮影すべきである。そうすれば、番組の部分と全体が把握でき、よりレベルの高い取材力を育てることが出来る。勿論、カメラマンとしてのレベルが上がると、そのようなことを考えなくても優れたロケを展開できるようになるし、むしろ現実との格闘こそ重要で、編集を考えるのが邪魔になる場合が出てくるが、初心者がそこから入ってはならない。長いキャリアで培われた能力に基づいて、自由自在に優れた映像を撮影するのと、未熟に、勝手放題に撮影するのは、根本的に違うことである。

(5)  編集する

  さて、取材、ロケも終わり、いよいよ自分の取材映像と対面するときが来る。それが編集だ。上記に「編集しながら撮影する」と書いたが、実はそれは、後の編集の苦しみを減らすための方便に過ぎない。ロケの本質は自分のイメージと現実のハザマでの、血みどろとも言える格闘で、レベルが高いロケになればなるほど「編集しながらロケをする」と悠長なことは言っていられない。いられないというよりも現実のすごさの前で、そんな暇がないといったほうがあっているかもしれない。

  自分が撮影した映像を見ると、ロケの前に描いた自分のイメージの貧困さや、取材対象の前で振舞う自分の未熟さ、それに圧倒されてうろたえる自分の頼りなさ、そして意外とダメだと思ったカットが、光彩を放っている場合がある。変種はこのように、今までの自分と決別して、新しい制作者の目で番組に関わる時間とも言える。

  テレビの場合、変種は映像のつながりを決めていく作業で、このよしあしで、今までの全ての努力が報われたり、台無しになるほどの重要な仕事だ。わたしも、天才的な編集マンと一緒に仕事をさせてもらったとき、映像を繋ぐという行為が、時空を超えて、世界を創造するほどの仕事だと気づき、そのすごさに驚くことが何回もあった。

  さて、編集をするとき、番組を構成するさまざまな要素のぶつかり合いに気づく。それは、編集が映像の流れを作ることであり、コメントは言葉という方法論、そしてシナリオ(構成)は、全体の意味の流れを作ることであるため、方向性が矛盾したり、衝突する場合があるからだ。実はコレがテレビ番組つくりの真骨頂で、その複合的な意味の流れを束ねて、あわよくばもうひとつ上の次元に引き上げていくのがディレクターの仕事なのである。このとき、自分が、扱っているテーマをどこまで理解し、自分のものにし、なおかつ社会や歴史と連動させて理解しているかが問われる。大げさに言えば、ディレクターの「人間力」が決め手となるともいえる。いずれにしてもそのような苦闘の中で、目の前の映像と向き合い、繋いでいかなければならない。身もだえするほど苦しく、また生きている実感を感じる充実した時間だと思う。

(6)  ポスプロをする

  編集が終わると、とりあえず番組のアウトラインが決まる。そのときディレクターの脳には、映像に伴ってどのような音声や音楽がつき、どのような意味合いのコメントが付き、どのような字幕が出ているかのイメージが決まっていなければならない。そのイメージにしたがって、ポスプロといわれる作業にうつる。ポスプロは、映像のつなぎをデジタル技術でワイプしたり合成したり、スーパーインポーズの文字を動かしたりデザインして出したりする、いわば番組のお化粧のような作業。美的センスが問われるとともに、番組の雰囲気を膨らます大切なプロセスといえる。

(7)  コメントを書く

  ドキュメンタリーなどの構成物の場合、アナウンサーなどでコメントを入れる作業に移る。コメントはNHKの場合、ディレクターが書く。コメントは、日記や、小説、評論などの文章は、言葉のみの世界なので、言葉を自由に飛翔させ、自分のイメージを言葉を使って構築していくが、番組のコメントの場合は、映像とくみあわせて情報を伝える性格を持つため、書き方が違ってくる。例えば映像にりんごが写っているとき、「コレはりんごです」とコメントしても意味がない。コメントは、ながれている映像の背後にある意味を補強したり、わざと別の意味のメッセージを出すことで、番組全体に深みを与えていく。

  テレビの場合、マスコミでもあるので、難しい言葉を余り多くは使わない。「視点は深く、表現は易しく」が基本。このことも本当に実践するのは至難の業で、コメントを書いてみると、いかに自分が月並みで、言葉の意味も理解せず、空虚な言葉を作り出しているかがわかる。「視点は浅く、表現は難解に」という最悪の事態にならないように、気をつけなければならない。

(8)  完パケする

  ドキュメンタリーのような構成物の場合、上記のさまざまな要素を束ね、一本の番組にすることで終了する(完パケ)。ディレクターは、再び全体の目を持ちつつ、そのバランスを調整し、番組が作品としての調和を持っているか品質管理をする必要がある。結局のところ、ディレクターは番組つくりの全てのプロセスに関わり、それに責任を持つ立場。作品がよければほめられ、悪ければけなされるのは、ほかならぬディレクターなのである。

(9)  オンエアー(キャスターとしてコメントする)

  構成物と違って生放送(やスタジオ番組)の場合は、スタジオでキャスターや出演者がスタジオを仕切り、進行して番組制作が終了する。NHKの看板アナウンサーだった山川静夫さんは、私たちスタッフに良く、「伝えるのではなく伝わることが大切だ」といっていた。「伝える」という言葉にな、何かしら傲慢な思い上がりの雰囲気がある。「伝わる」には、届けようとするメッセージ以外の伝達者の息遣いや、周囲のにおいが感じられる。テレビを見ている人はそれを敏感に嗅ぎ取り、番組の意図やコンセプトを理解するというのだ。

  私的な体験談になって恐縮だが、私は以前、皆既日食の生放送のリポートのために、硫黄島から放送を出したことがある。硫黄島はいまだに1万体もの遺骨が見つからないまま埋もれ、あちこちに生々しい戦闘のあとが残る壮絶な島。何の因果か、日本での皆既日食のベストポイントが硫黄島だと分かり、構成、演出、解説、交渉が出来る人間(つまり年を取ったテレビマン)が必要というので、私がやることになった。海岸線に沈没した船が何隻も見える場所で、皆既日食が起きた。私は、今までテレビなどで、日食の様子は見たことがあったが、実際に見ると全く違う雰囲気。太陽が欠けていくにつれ、周囲の温度、海や空、雲の色合い、風の強さ、生き物の気配などが同時に変化していく、大スペクタルとも言える世界だった。私は一応解説委員なので、皆既日食の現象の解説をしなければならないのだが、余りにすごいので、遂に「ほおお」とか「わああ」とかという言葉しか出なくなった。情けない話だが、私の言葉は現実に押しつぶされ、うろたえ、立ち尽くす姿のみが中継された。失意の中東京に帰って、さぞや起られると思いきや、あのシーンが一番良かった戸のお褒めの言葉。私は複雑な気持でそれを聞いたが、テレビというのは、きれいな言葉を待っているのではなく、画面に出ている出演者、撮影しているカメラマン、音声を拾っている音声マンの全体から、何らかのメッセージを感じ取っているのだなあと、痛感した。「伝えるのではなく伝わる」事が大切だ。全くその通りなのかもしれない。

  先輩から受け継いだ名言集

私は今までテレビ作りをする中、先輩から様々なことを教わった。また、取材先の先生からも、はっとするような言葉を聞くこともある。それらの一部を書き出してみる。

☆「芝居を見に行く電車に乗ったとき観劇は始まっている」

  芝居好きな先輩が「芝居、特に遠方で行われる芝居を見る為に、延々と電車に乗って移動していくが、そのとき既に舞台は始まっている」と言っていた。ある舞台のシーンを想像しながら、電車の外の風景を眺めていると、流れていく家々の景色や、木々の色、あるときは粉雪の白さも、これから始まる物語と融合して、自分の脳内にイメージを結び始める。そもそも舞台を見たいと思い、その思いを抱きながら電車に乗っている自分の心情そのものが、舞台の一部と言えるのかもしれない。テーマパークのメインの部屋の手前の待ち合い空間(ホアイエ)も同じ。そこで体験する物事が、実はメインイベントの前哨戦になっているわけだ。プロデュースとは、最終的に行われるメインイベントの演出のみではなく、そこに至る時間や空間の流れ、メインイベント後の状況も含めて考える総合的な作業だといえる。

  番組をつくる場合も同じで、目的にする取材やロケの前後を含めて捉える目を養わなければならない。私の授業の中でも、それを感じさせることがよくあった。授業の内容は、まず数人のチームを作り、「これが国立天文台だ」というテーマで、限られた時間でデジカメで写真を撮影し、取材し、構成してみんなの前でプレゼンするというものだったが、チームによってはやりかたが千差万別。最初の役割分担で揉めるところもあれば、役割も決めず外に飛び出していくチーム、打ち合わせに半分もの時間を使うチームなど様々だった。もちろん、最終的によいソフトが出来ればどの方法でもいいのだが、一連の制作プロセスの段取りをうまくきめられないチームは、だいたい混乱し、取材が滞り、結局プレゼンに間に合わない(放送では放送事故になる)という傾向があった。番組作りのときは、まず全体の段取りを決め、最適なスケジュールをつくることが基本といえる。全体の体制や役割分担、スケジュールの善し悪しが、コンテンツの質を決めてしまうのは、あらゆる仕事と共通しているが、番組作りは、ある種混乱した状況の中で、時間との競争をしながら進めていく分、その傾向が大きくなっていく。

「人間は最大の情報源」

  私の授業では、取材方法はどのようにしても良いと決めてスタートした。これまたいろいろな取材の仕方があった。天文台のパンフレットから情報をとる人、構内を散策して気になったものを直感的に撮影していく人、一直線に資料館に飛び込む人、インターネットで検索する人など様々なやり方で挑戦していた。その中で印象的な手法をとったチームがあった。

  それは入り口の「守衛さんの目を通してみた国立天文台」という手法だった。このやり方はうまい。守衛さんは、どのような先生が構内で何をしたり、どのような人が訪問したり、トラブルが起きたり、地域とのつながりがあったりするか、天文台を斜めから見た情報をふんだんに持っている。(もちろんこの守衛さんがキャリアがあり、長い時間天文台を見つめ続けていることが前提だが)。「守衛さん」という船の視点から取材をすることで、番組を構成する手法が一つ成立するわけだ。実際に、この手法が成功したかどうかは別として、このように取材の「切り口」を設定するのも秘訣の一つである。「人間こそ最大の情報源」ということを覚えておこう。

「植物学者は必ずしも”名園“をつくれず」

  私がNHKに入局したとき、ある報道番組の看板プロデューサーに「番組作りの秘訣」を質問したことがある。答えは、「高度な平凡性を持つ」ということだった。彼によると、ジャーナリストの最大の的は「知ったかぶり」で、取材している対象について知っている勘違いをするということ。人から聞いた2次情報を信じたり、事前に読んだ本の情報の色眼鏡でインタビューしたり、自分の豊かな?教養に溺れて、よく知っているという勘違いをすることが最も危険だというのだ。

  番組をつくるとき、それについて膨大な情報を持っていることが絶対条件だと思っている人が居るが、それは間違いだ。情報は確かに重要だが、最も重要なのは、その情報をどの方向に、どのようにまとめていくか、どのような問題意識に基づいて、どのような手法で表現していくかといった、制作者の信念や教養、世界観、そして感性だといえる。情報は専門家に取材すれば手に入れることが出来るが、どのような番組をなぜ今、どのようにつくらなければならないかは、プロデューサーの心の中にあるということを忘れてはならない。

「百聞は一見にしかず」

  NHKJAXAと共同して、月探査機かぐやに取り付けたハイビジョンカメラで、月面の映像を撮影したとき、ある著名な天文学者が「映像に映っているものは全て知っていましたが、見てびっくりしました」という名言を吐いた。私はこれを聞いたとき本当に嬉しかった。その先生は、月についてのあらゆる知識を持っていたのに、なぜそんなことを言ったのだろうか?「映像の力」がそれをいわせたのではないだろうか。月面について言葉で表現された諸々の知識以外に、高画質の動画が伝える世界には、月面の光の具合や影の変化、クレーターの配置が織りなす独特の質感があり、それが先生の心の底に、強く迫ったのではなかろうか。人間の意識は巨大な無意識で支えられているが、無意識に直接語りかけていく、もう一つのメッセージがあるのにちがいない。

  人間のコミュニケーションには「バーバル」と「ノンバーバル」があるが、映像の世界は後者に密接に関係している。両者の世界を融合できることが、プロデューサーにとって大切なことだともいえる。

「視点を変えると違う世界が見える」

  書店にいくと、様々な世界地図が置かれているが、地図から発見することは多い。私達がよく見る地図は、日本が中心にあり、太平洋が世界を分断している地図だが、欧米の地図は大西洋中心で、欧州とアメリカの関係がよくわかる。日本はといえばアジアの東の端にあり、「極東」という言葉がよく理解できる。北極上空から見た世界地図では、北極海がアメリカ、欧州、アジアの中心にある内海だとわかる。このように、視点を変えると違う情報が見えてくるというのは重要なことだ。

  ある民放のニュース番組のプロデューサーが「ニュースとは何か」という文章で次のようなことを言っている。「村に最も高い塔が出来たことをニュースにするとき、どのように撮影するか。凡庸な記者は、村の家屋からカメラをパンさせ、にょきっとそびえ立つ塔を撮影し、「高さ」とか「今後の役割」とかのコメントを乗せるだろう。しかしそれでは不十分だ。大切なことは、村で最も高い位置から見ると、どういう風景が広がっているか、その新しい認識の世界を伝えることこそが重要なのだ」。このように、あるニュースが作り出す価値に気づき、それを見つけ出していくこともプロデュース的発想といえるのではないだろうか。

「ヒトばかり見ているとヒトがわからなくなる」(旭山動物園小菅元園長)

  旭山動物園の小菅元園長は、動物園でいろいろなことを見聞きしてきて、複眼的な視点が重要だと力説している。人間は人口爆発で、人間しか居ない空間に暮らしていることが多いが、人間しか見ていない暮らしからは、「いのち」についての感受性が育ちにくい。日本について理解する為には、海外に行ってみるとよいのと同じように、「人間」を理解する為には、人間以外の生物を観察するのが一番だ。このことばは、現代文明にまみれた、私たち全員に、大切なメッセージを伝えていると思う。

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コメント

ジャーナリズム学部における「番組制作」の講義ともいえる中身の濃い解説ありがとうございます。

投稿: Makoto Ichikawa | 2011年2月23日 (水) 23時07分

学生時代に興味があったディレクター職を思い出しました。若い頃に室山さんに出会っていれば、今とは違う世界にいたかもしれません。本当に中身の濃い講義です。感銘を覚えました。ありがとうございます。

投稿: 国武大中武 | 2011年3月 4日 (金) 10時36分

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