« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

大人ドリル「情報革命」8/29(日)GTV23.00-23.30

Ipadやスマートフォンはじめ、新情報革命とでもいえる状況が急速に進行しています。この情報爆発の中で、人間や社会はどう変わるのか。その現状と課題をディスカッションします。お時間があえば是非ともご覧ください。(司会:加藤浩次、渡辺満里奈。解説委員:早川、中谷、室山)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スタパ「国産ロケット通年打ち上げへ」2010.8.24

(アナ)

種子島宇宙センターなどから打ち上げられる国産ロケットは、周辺の漁業との関係から、年間の打ち上げ期間が制限されてきましたが、このほど、交渉の結果、来年度からの通年打ち上げができることになりました。室山解説委員。どういうこと?

(むろ)

日本のロケット打ち上げは2か所から行われています。(P1)ひとつが、種子島宇宙センター(大型ロケット。実用衛星の打ち上げ)もう一つが、内之浦宇宙空間観測所(観測ロケットの打ち上げ)この周辺はカツオ、マグロ、サバ、アジなどが取れる行質な漁場でもある。ロケット打ち上げのときは、万一の場合、落下物の危険性があるので、一定期間、船舶立ち入り禁止海域を設けてきた。

(アナ)

どのくらい制限?

(むろ)

(はりつけ)現行では、打ち上げ期を夏と冬190日ほどに設定してきた。しかし、今回の漁業関係者との交渉で、地元事前協議を前提に通年打ち上げが可能になった。

(アナ)

背景は?

(むろ)

(はりつけ)大きな背景として、「世界のロケット打ち上げ競争の激化」がある。衛星打ち上げビジネスは、打ち上げ期間に制限があるとどうしても足かせとなり、「解除」は宇宙開発関係者の悲願だった。さらに、国産ロケット連続成功や、はやぶさ、希望などの日本の宇宙開発の活躍で、漁業関係者の間で、宇宙開発に対する理解が深くなったことも挙げられる。

(アナ)

世界の打ち上げ基地の状況はどうなっている?

(むろ)

(P2)世界には主な打ち上げ基地は20か所あるが、新しい打ち上げ基地の建設ラッシュ状態になっている。背景には、各国が宇宙開発の意欲を示し、世界の宇宙産業の売り上げが、年間7%成長していることもある。  

(アナ)

日本のライバルロケットは?

(むろ)

(はりつけ)世界の商業衛星打ち上げは年間約30機。そのうち、アリアン(欧州)。プロトン(ロシア)が全体の2/3を独占。残りの国が残った1/3を取り合っている。日本のH2Aロケットは、11回連続成功で、成功率94%と世界レベルになったが、打ち上げ回数が少なく、今後の実績つくりが重要。

(アナ)

通年打ち上げの効果は?

(むろ)

宇宙ビジネスを進めるうえで、「タガ」がとれ、交渉がやりやすくなるだろう。また、惑星探査のターゲットも広がるなど、効果が期待できる。

(アナ)

今後の課題は?

(むろ)

種子島宇宙センターの老朽化など、環境整備も必要かもしれない。またロケットそのものの成功率の向上や、コストダウンなどやることは多い。そして何よりも、漁業関係者との信頼関係をきちんと築き、情報の透明性をあげながら、安全で確実な打ち上げを積み重ねることが重要だと思う。

(アナ)

ありがとう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

スタジオパーク「国産ロケット通年打ち上げへ」8月24日(火)13.40-13.50(GTV)

日本のロケット打ち上げは漁場に近い事情があって、打ち上げ時期の制限がかかっています。けれども世界の宇宙開発競争がし烈になり、また最近の日本の宇宙開発が快調であることもあいまって、来年度から打ち上げが通年でできるようになります。日本や世界のロケット打ち上げ競争の現状と課題を解説します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

TVシンポジウム「地球の未来を探る~共生思想をどう生かすか」8月22日夜放送

TVシンポジウム「地球の未来を探る~共生思想をどう生かすか~」という番組が放送されます。8月22日18時-19時(ETV)。今年10月に名古屋でCOP10(生物多様性条約締約国会議(が開かれますが、生物はなぜ多様でなければならないのか?どう共存すればいいのかについてディスカッションします。司会を室山がつとめます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インタビュー(感性報道価値研究会2010.7.20)

■■映像を教育にも生かしていこうという趣旨で、2007年にサイエンス映像学会が立ち上がりましたね。

【室山Answer サイエンス映像学会は、科学技術ジャーナリスト会議から派生しました。だから兄弟みたいなもんです。科学技術ジャーナリスト会議は、僕も理事をさせていただいていますが、ある理事が科学コミュニケーションを伝えていく中で、映像を使ってどこまでできるかということで始まったものです。養老先生に会長になっていただいています。できて何年か経ちました。

■■小中学校の教育では、体験型と称し、机上の空論やネットでの調べ学習だけでなく、フィールドに出ていくことを実践しています。身体を動かすこと自体で気づくことがたくさんある、それは匂いや皮膚の感覚だったり。広告にはそのあたりが効いてくるのです。メッセージを言葉で伝えるより伝わるのではないか。そういう観点にフォーカスするようなものがありうるのではないか。そこでは映像もあるし音声もあるし、活字もありますが、主要なものは感覚です。ですが、悲しいことに僕たちは視覚に85%ぐらい依拠してしまっています。

Answer 人間は視覚優位。「ラジオを聴くと世界が見える」といいますからね。

■■ラジオの世界にはイマジネーションをものすごく掻き立てられます。風の音もそうだし匂いすらも想像できる。そういう感覚的なところとメディアを組み合わせた新たな領域ができるのではないか、という研究計画を学会に出したら、それは面白いじゃないかという先生が出てきました。それもこの3月で2年間の研究が終わり、成果を出さなければならなくなりました。どん詰まりの状況で室山先生にお話を伺いに参りました。
 さて、環境番組を制作する、あるいは解説する立場で、特にテレビでいかに伝えるか困るところ、伝わりにくいと感じられるところがあると思います。先日、日食の話を聞いていたのですが、映像を作るプロの立場として、匂いなり自分が取材して目で見たスケール感なりを伝えるのに困った体験はありますか。

Answer しょっちゅうですね。
 アナウンサーの山川静夫さんがよく僕らや新人のアナウンサーに言っていたのは「伝えるんじゃなくて、伝わることが大切だ」ということでした。「伝えている」ではなく「伝わっている」ことが重要、と。だから山川さんは「黙るのもアナウンサーの仕事だ」とよく言っていました。下手なアナウンサーは、黙ればいいのにべらべらしゃべって台無しにしたり、下手なライトマンは照明がいらないところで点けて台無しにしたり。僕らはそういうのをやるんです、自分の専門で全部をクリアしようとするのだけれど、山川さんぐらいの達人になると、沈黙も言葉だ、とよく言っていました。それも使い分けて、伝わっていることが重要だ、と。僕は元々ディレクターをやっていたんですが、自分のメッセージを……メッセージを伝える、というのもおこがましいんだよな、なんだろうな、共有する感じですか、自分の感動や調べたこと、それを共有できているか。そして共有しても、10人いれば十通りの共有になるんだけれども、受け手の心の中に波紋が広がっているかどうか。それは、僕らにはわからないんです、その人にメーターをつけるわけにはいかないから、自分が出した情報がどういうふうに視聴者の心の中に波紋を描いているかわからないし、社会にどういう影響を与えるのかわからないけれど、まあ、勘でやっているようなものですね。だからいつも不安です、僕らの言ったことが本当にちゃんと伝わるだろうかと。
 その証拠に、クレームの電話なんか聞いていると、「ありゃ、これはぜんぜん、そんなつもりじゃないのに」ということも。だけどものすごく的確に聞いていて「よかった」という電話もあれば、ぜんぜん伝わっていない人もいて千差万別です。だから、全員に伝えて感動させたりよかったと言わせるのは無理だ、と、僕らは諦めて……諦めていると言ってはダメなんだよな、できるだけそういうふうに努力するんだけれど、まあ、人にものを伝えるのは至難の業で。その人と10時間一緒にいて一生懸命喋っていても伝わっているかどうかわからないものね。「体験は共有できない」というのは、僕ら元々、別々の脳を持っている者の宿命であって、それを言葉や映像という記号を手がかりに情報を伝えているだけですから元々無理がありますよね。こうやって喋っているのもそうですよね。だから、伝わる、なんてこと自体が奇跡みたいなもので、よくみんな歩み寄ってくれて、わずかな言葉や映像で想像力を働かせて理解してくれるもんだと逆にびっくりする。
 日食を現実に見ればわかりますが、テレビで見た日食と現場に立つのとではぜんぜん感じが違ってたんですよ。もう……。まずね、日食についていろいろ調べて行ったんです。たとえば、西の方向から時速1500キロメートルの月の影がワーッと来るはずなんですよ。水平線からこちらに向かってワーッと来る、それを撮ろうとした。
 それから、影に入る前に「シャドーバンド」とかいう現象がある、と。それは、皆既直前に、光? ミミズみたいな、光るミミズみたいなのがいっぱいワーッと出るんですよ、チリチリチリッとした感じで。それをシャドーバンドっていうんだって。それも撮ろうとしたんです、映像で。結局、曇っていて両方ともうまく撮れなかったんだけれども。
 そして三番目に、今度は、影の中に入ったらぐるり360度の水平線がピーッと明るくて自分のいるところが暗い、という状況になるんです。ふつうは太陽の日の出日の入りのとき、太陽の周りだけ明るくなるじゃないですか、そこだけが。だけど、ぐるり360度が明るいんですよ。夕焼けみたいになって。そして自分に近づくほど暗くなるんですよ。そこに、立つ。そういう経験ができたんです。シャドーバンドは、変な感じでしたね、なんかざらざらしたような、光がざらついたような変な感じ。それから、あとでカメラを見ると、影がワーッと、雲のところをワーッと隠しているのが撮れていたんだけれども、現場ではよくわからなかった。そういう状況で実際に皆既日食に突入すると、どれも日常的な座標軸では起きない。だいたい、巨大な影が時速1500キロで来るなんていうのもないし、ぐるり360度が明るくて真ん中が暗いのもないし、光のミミズみたいなものも経験したことがない。でもそこに立つと……僕はそのときなんて言ったかな、「童話の世界に入ったみたい」と言っちゃったんですよ、童話の世界にいるみたい、と。それがそのとき出た言葉なんだけど、だけど、光が出たり入ったりするときにいろいろ、僕は解説しなきゃいけないでしょう、仕事ですから、生放送ですから。それに、硫黄島だということもあった。硫黄島には1万人ぐらいの遺骨がまだ埋もれている、しかも上陸海岸のそばに廃船が十艘も沈んでいるところでやっているわけですよ、もう異常な精神状態になるわけ。そこで皆既日食が起きた。それから地熱で下は暑いしね。それに放送直前にスコールで、放送に入って35分間はカメラは撤収して逃げていた。それで戻ってきたら日食が起きた。
 そういう異常な状況で起きているので、僕はその状況を説明するんですけど、絶句しちゃったんですよね。ワーッと隠れたときに「ホぅーーーッ!」とか言って(笑)。「はああ!!」とか言っちゃった。何か言わなきゃ、というんだけれど、あとで見たら「はああ!!」「うぉぉぉ」とか言っているんですよ。すると、スタジオのアナウンサーが「どうしたんですか、どうしたんですか?! 室山さん、何か起きたんですか?!」とか言って、それでも「ほぉぉぉ」とかまだ僕は言っているわけ。スタジオが「なんだなんだ」みたいになって。
 その後、童話だ、みたいなことを言って、いろんなことをやって東京に帰ってインターネットを見たら、「『ほぉぉぉ』がいちばんよかった」って。「ほぉぉぉ」のあのときが日食のリアリティを感じた、という意見がすごく多くて。これってなぜかな、ということですよね。「非常にすばらしい影が」とか「宇宙の神秘が」という言葉ではなくて、「ほぉぉぉ」というぜんぜん言葉にもならないような。たまたま僕がボキャ貧で(言葉が)出なかった状況が。僕もうろたえちゃっているわけです、ある種。それをカメラが撮っているわけです。でもカメラマンも初めてだからもううろたえているわけですよ。その情報を見て、客観的に見て、「あの太った解説委員は、何か仕事をしなきゃいけないのに言葉が出なくなってワーワー言っている、それがいちばんよかった」というのが多かったんですよ、あのリアクションがね。だから、それは伝わったんでしょうね、その場でね。だけど、僕が意図して言葉を組み立てて伝えたのではない。それって何なのかなあ、と今でも思ってます。
 テレビというのは、“それ”に近いところで仕事ができる。新聞とか雑誌とかと違う。そういうカメラに映る状況自体で伝わっちゃう場合もある。あの時いったい何が起きたのか、自分にとっても印象深い。今まで三十数年もディレクター、プロデューサーをやってきてもう腐るほど番組作ってきて、その都度これがみんなにどう見られるだろうかと心配しながら放送して、伝わったり伝わらなかったり、まだまだダメだよ、と。「これで完璧だ」なんて思ったことは一度もないし。そうやりながらテレビを作ってきました。「伝えてあげましょう」とかもうそういうんじゃなくて、格闘してきた感じです。人にこれを「こうだったよ!」「わかるかい?」という感じでね。思い出しながら喋りますが、ものが伝わったと感じたときの話をします。僕はドキュメンタリーをずいぶんやったんですけれど、若かったころのあるドキュメンタリーで、カメラマンと、障害を持ったおばあちゃんか何かのドキュメンタリーをやりました。お婆さんは瞽女(ごぜ)だったのかな、目が見えなくて三味線を弾く。薩摩瞽女かなにかののお婆さんのドキュメンタリーだったと思いますが、僕らがカメラを回している前でお婆さんが躓いたかなにかしたんだよね。カメラは回っているわけですが、カメラはズームインしたんです。あとで見たら、途中でためらっているんです、ズームを止めている。そしてまたおずおずとズームしたんです。そのカットがすごくよかった。それで「これはいい、このカットは」と。容赦ないカメラマンならシュッとズームインして、たぶん、ものすごく冷たいカットになるんだけれど。ズームインしなければいけない事情があったんですよ、カメラマンには。それをアップで撮らなければいけない。そこで途中で一度止まってまた行っている。だから、きれいじゃないんです、絵は。だけどすごく状況が伝わってくる。カメラマンがうろたえていることがわかるんですね。
 テレビ、伝えている側は絶対者ではなくて、相対的にその人と絡んでいて、「あ、カメラマンは今迷っているな」みたいな情報が込みで伝わったほうがものごとがよく伝わることもある、ということですね。それから、若かったころ、最初に思ったのは……最初、宮崎局に5年いたんです。最初はみんなローカルに行くんですね。それで、坪居さんという若くて腕のいいカメラマンとまだ新米の僕で、どこかの高校が甲子園に行くニュース取材をしたんです。番組は15分かな。坪居さんに「このチームの甲子園への思いや熱い気持ちを撮ってくれ」と言ったの。「たとえばどんなの?」と聞くから、「いやあそれはやっぱし、スタンドでみんなが行けーッって拳のアップとか、額にピーッと汗がタラーッとなるとか、泣いている涙のズームインだとか、そんなやつだ!」と言うわけです、僕は力がないから。で「ふうん」とか言われて、行ったんですよ。もう9回裏みたいになったときに、坪居カメラマンがカメラをスーッと下にパンダウンして、足元をずーっと左から右にパンしたんです。何を撮っているんだろうと思ってあとで見てびっくりしたのが、全員、爪先立ちになって見ていた。それをずーっとカメラで舐めていたんですよ。スタンドで見ている人たちのね。カメラが寄っていって足元をずっと撮っていたんです。拳のアップでも汗でも涙でもなかった。それを見たとき、「あ、これです、僕が欲しかったのはこれです!」と言った。だけど僕のイメージにはそんなものぜんぜんなかった。その人たちの思いがそのアップのパンの中に、爪先立ちに凝縮されていたんです。それで、カメラマンってすごいな、と。これも伝わった例ですよね。このときに伝わった情報とはいったい何だろうかと考えると、「甲子園への熱い思い」という言葉になるんでしょうけれども、そんな陳腐な言葉で言えないような情報がその中にいっぱいあって、記号化できないものが詰まっているように思うんですよね。テレビのドキュメンタリーとテレビの映像の重要な部分というのは、そういう、映像の中の深みというかな、何というかな、簡単に記号化できない部分。焼酎でいうと甲類でなくて乙類ですね(笑)、あの臭みと匂いのある。迷宮感のある絵というのかな、簡単にはわからないぞ、だけどなんかゾクッと来るだろう、みたいな、そういう絵が撮れているかどうかが重要だ、と僕は思うんです。喋りながら考えていますから話は飛びますが、映画でもドキュメンタリーでも、いわゆる名作といわれるものは、僕の考えですが、「あの映画、よかったね、こんなストーリーでこんな論理展開でこんなになるんだよね」という覚え方はしないでしょう? 名作というのは「あの映画の最後に、あの人がこんなことを言うんだよ」とか「最後にこんなカットがあるんだよ」とか、要するに映像でいうとその作品のシンボルですよ、それがあるかないかが名作であるかどうかの違いだと僕は思う。そのシンボルが、坪居さんが撮ったものでは足元の、爪先立ちのパンだった。論理展開とかいろんなことに引きずられてその世界に入っていくけれども、人間が映像を見て感動したりするときは、なんというか、それが結晶化したような、全部詰まったような、シンボリックなものが撮れているかどうかが勝負だと僕は思うんですよ。そこを見つけるのがドキュメンタリーだと僕は思うんだけれど。しかし、その映像はそう簡単に記号化できない映像ですよ。なんとかの青春の喜びだとか、そんなアホみたいな言葉で簡単に表現できないような、迷宮感のある、ものすごくいろんな情報が中で交錯した、それでも一つのベクトルとして自分に迫ってくるような、そういうシーンであったり映像であったりすると思うんです。これはなかなかテレビなどの映像以外のメディアではちょっとやりにくいところかもしれない。詩もそうですね、多くの概念が一言に凝縮している。
 それってなんか、いいですよね、忘れない。脳でいうと辺縁系とかあのへんもしずかに深く興奮しているんでしょうね。記憶も強化され、それで覚えているんでしょうね、きっと。

■■お婆さんのことも甲子園のことも、人間の感情や心理をどう伝えるかというところだと思います。室山さんは科学番組をずっとされてきたり、ドキュメンタリーではチェルノブイリの問題なども手がけていますが、人が映らないところで自分が感じたものを伝えるというか、人を映してその人がどう感じているかを映像で表現するというところだと思いますが。

Answer そうとばかりは言えない。その人が鏡みたいになって僕の心を映している場合もあるよね。その人が泣いているんだけれど、カメラマンも僕もその人に思いを託してそれを撮っているときには、追いかけている僕らの気持ちが画面から出てくる場合もあります。そこが微妙なところで、映っているものの世界が、という単純なことじゃないと思う。さっきの「途中でカメラがためらう」というのが典型的なことだし。昔NHKに『子供ニュース』というのがありました。今のとは違いますよ、昔の子供ニュースね。あれで僕が本当によくないと思うのは、「どこそこ村のよい子たちは」って言うコメント。そして必ず画面に子供が出てくるのね。それを子供が見る。これはむずかしい。子供ニュースというのは子供が見るニュースだけれども、画面に子供が映ってなきゃいけないということはないじゃないですか。画面に石が映っていてもいいし大人でもいいし、何でもいいんですよ。子供に伝えるニュースということはありますけれど、いつも子供が何かやっていて、「どこそこ村のよい子たちは……」って大人がコメントをつけて、それで子供に伝わったように錯覚するような、昔そういう番組がありましたね。それは間違いだと思う。重要なことは、画面に映っているものが即伝えたいこととイコールではなく……言っている意味はわかりますよね? そういうことだと思うんです。ドキュメンタリーを撮っているAさんの世界を追いかけているけれど、Aさんの絵を見せているときに、たとえば、見ている人が家族の別の人を思い出すような造りになっているかもしれないし。そのAさんが媒体になっている場合があるじゃないですか。主役にもなるけど媒体にもなるような。そういうことだと思うんです

■■僕はそういう見方をしていることがけっこうあります。見ていると、違うことを考えている。

Answer それでもいいんじゃないでしょうかね。だってけっきょく、見ている人が脳の中でイメージを作るための装置としてテレビがあるだけだから、いいんですよ、どんなイメージが生まれたって。それが多様で、いろんなイメージを誘発するのが名作だと思いますよ。そこで言われていることが単一の情報ではない。さっき言った「迷宮感のある絵」というのはそういうことです。それを見たとき、農業をやっている人が見れば自分の農業の中で感じてきたことを思い出したり、同じシーンを教育者が見たらぜんぜん違って子供のことを思い出したりするような、そういう訴求力のある、普遍性のあるものがやはりシンボルであって。そういうのを名作っていうんじゃないかと思います。だから見ている人は何を思い出してもいいんですよ。僕なんか、もしできたら、見ていたその人たちが、感動した人たちが思い出していることをもう一度ロケしなおしてつないでみたいね。「なぜこの人はこれを思い出しているんだろう」と。それを全部つなぐと、ひょっとすると、僕ら人類の何か大きな構図がその向こうに見えるかもしれない、と思ったりもする。
 という感じかな、うまく言えないけれど。

■■今、地球環境問題の映像では北極の氷が崩れるシーン、ツバルを海水が浸食していくシーン、ホッキョクグマなど典型的な映像が多いと思いますが、それだけではないはずなのにそれくらいしか典型的な映像は見にくい。広告でも、青い地球が映し出されてそれが茶色くなっていくといった典型的な映像が多くなっています。それでヨシと思っているはずはないのですが、そうなってしまっているのではないでしょうか。コテコテのステレオタイプなシーンばかり使っているわけではないと思いますが、NHKは環境を扱った番組や科学番組が多いわけですが、そのとき、そうならないようにしようとする工夫があるのでしょうか。

Answer それはプロデューサーが悪いんですよね。そんなつまんない絵を使わせるのは。今でもやっていますね、シロクマが泳いでいて「かわいそう」とか。でも、その向こうには問題の解決はないんですよ。泣いたらそれでカタルシスは終わりです。地球温暖化問題を語るときに、本質的には「シロクマがかわいそう」という論理はない、と僕は思うんです。最初はそれでいいかもしれませんが、科学番組の人にもよく言うんだけど、そんなことはするな、と。そんな、マージャンの安い役で上がるようなことをするな、と。派手な絵がなくてもものすごくメッセージ性の強い画像はできる。絵はあとでついてくるものだから、最初に派手な絵、氷河が壊れるところとか、海の大きな波を別の色で処理して怖い絵にするとか、そんなものはかえって邪魔で、温暖化の本質を見失うのでよくないと思います。誤解を招くかもしれないけれど、映像なしでテレビを出してもいいじゃないか、ということ。以前、僕の先輩が作った壇一雄のドキュメンタリーで、画面が真っ暗で何分も何も映っていないんですよ。それで言葉だけが出てくるのがあった。すごかった。

■■それは放送上問題はないのですか。

Answer ぜんぜん問題ないですよ。そりゃ技術はびっくりしますよ、だけど、真っ黒の画面も絵じゃないですか。それで言葉がボソボソと。でもときどきしーんとしちゃうんですよ。それに本当に音がなくて真っ黒のまま、という演出をする場合もありますよね。それでいいじゃないですか。派手な、シロクマが泳ぐ絵じゃないといけないとか、氷が崩れる派手な絵がなくちゃいけないという理屈にしばられる方がおかしい。
 だから、映像のないテレビみたいなことも自分たちの選択肢に入れて、何を伝えるのかという本質をまず考えて、それを組み立てるメディアとして音とコメントをどうしていくか考えるのが筋だと思いますよ。

■■ラジオのように「5秒止まったら放送事故」とかいうことはないんですか。

Answer 大丈夫です。そりゃ、技術さんはびっくりしますが、「これは演出だから心配するな」と。そういうので「困る」と言ってくるのだったらその人は間違っているよね。だって、ジャーナリズムとか放送業界で、メディアに携わる人間としてあるまじき行為だと、向こうは僕をそう見るかもしれないけれど、逆に言いたいよね、「なんでテレビは真っ暗にしちゃいけないの?」と。だってそれも表現じゃないですか。重要なことは見ている人の脳の中にどういうイメージが生まれているかであってね。テレビは装置なんだから何をやってもいいわけでしょう。テレビの前で面白おかしい漫才をワーワーやっていても、見ている人が「温暖化って怖いな」と思えばそれでいいわけでしょう。ぜんぜん違うものが映っていてもそういうことが伝わればいいんでしょう。そういうふうにいっぺん全部ゆるく崩しちゃって考えることが必要かな、と思うので、ステレオタイプなコテコテしたものはかえって邪魔で、それを乗り越える努力をする必要があると思います。僕らはものすごくいろんなものに縛られているから、シロクマが死んでいるカットを出すのがいちばん楽なんですよね。それに、わりとそういうのを求めている視聴者もいるので(笑)。だから、お約束シーンですよ。最後に「ホラ、シロクマが死んじゃった、かわいそうでしょう」と。そして音楽どうぞ、と音楽がダーンと鳴って、最後に地球をズームバックでね、青い地球がどうだこうだとかお約束シーンでしょう。そういうのはもうやめたほうがいい、何も伝わってないもんね。思考停止だと思う。

■■環境省の予算でやる温暖化防止キャンペーンでは、環境省の人たちが必ずその一点を要望してくるんです、「脅してくれ」と。しかし我々からすると、「脅せば逃げますよ」、つまり「視線をずらしますよ」と。

Answer 僕は、温暖化問題の根本には人口爆発と南北問題があると思うんです。地球の上に人間がいっぱい増えました、ある計算では今の人口を養うためには地球1.4個分くらい必要だ、という。0.4は、昔の貯金に手を付けている、昔の石油や石炭に。エコロジカルフットプリントという考え方。それで、みんなが日本人の生活をしたら何個必要で、アメリカ人の生活をしたら6個必要で、とかいうの。要するに、地球という惑星が持っている資源やエネルギーと、貯金に手を付けずに、生まれてくる価値を享受して人間が生きていく人数には適正な規模があるんだけれど、人間は脳が発達して人工環境を作って自分を守って増えてきたので、他の動物のように増減せず人口がどんどん増えてきている。その人口が、もう人口爆発が起きていて、それがベースにある。その結果、森林破壊が起きたり砂漠化が起きたり…、食糧不足、エネルギー不足、都市問題、水問題が起きる。そしてさらに地球温暖化問題があるんだと思うんです。だから、温暖化問題というのは一つの症状でしかなく、本質は人間の文明の問題だと思うんですよ。人間が、地球と共存していく文明をどう築くかが問われているわけで、そこに手を突っ込まずして温暖化の問題を語るのは変だと思うんです。冷えりゃいい、ってもんじゃないんです。地球が冷えれば何でもかんでも解決するって、そんなことはなくて、何も解決しないですよ、大本が変わらないとね。そういうふうに考えます。それから、温暖化を解決するには、やはりインセンティブがないとダメだと思う。得したり、やっていて気持ちがいいとか。僕の意見で言うと、温暖化問題を今後解決するためには新しい文明をつくって、良い生活をしましょう、ということ。化石燃料を燃やしたりするもったいない使い方じゃなくて、クスリにするなど上手に少しずつ使うようにして、エネルギーは循環型の自然エネルギー、太陽光なんかでやっていく。それから生物多様性を守って地球環境の循環の中に人間を位置づけて。そうすれば、僕らが捨てるものもすぐ腐って土に戻ってクルクルものが循環する、そういうサイクルの中にもう一度戻るような、しかも未来型の文明を作ろう、ということだと思うんですよ。僕らはそこで豊かに暮らす。だって、太陽光発電も。二酸化炭素だけで言うと、温室効果ガスが出なければいいわけでしょう、あとはエネルギーはザバザバ使っていいわけじゃないですか、太陽光エネルギーだっていくら使ってもいいわけだ。僕らはべつに昔に戻って貧乏になる必要はないんですよ。問題のところだけ消去して豊かになっていくような文明のやり方がいい。こういうエピソードがありますよ。僕、5年間、子供の科学番組をやっていたんです。そのとき子供に環境の話を聞くと、いまの子供って何でもよく知っているんですよ。地球環境だ、二酸化炭素がどうだとか、理屈は言うんですよ。それで「だからどうするの?」と聞いたら、「我慢しなきゃいけないんだよね」と言うんだよね。それはどういうことかと聞いたら、「本当はここから3階までエレベーターに乗りたいけれど、いやだけど、我慢して階段を上がらなきゃいけないんだよね」とか「ここから渋谷に本当はタクシーで行きたいんだけれど、我慢して歩かなきゃいけないんだよね」とか「本当は車がいいんだけど、我慢して自転車に乗らなきゃいけないんだよね」とか、そういう言い方をするんですよ。新宿の飲み屋街でクダ巻いているサラリーマンと同じような、未来のない暗い目をして言うわけ、小学生の男の子が。これは間違っている。ぜったい間違っている、これは。この子が将来地球を救うわけがない(笑)。 「君はそれをいったい誰に聞いたんだ?」と聞くと、やはり大人に聞いているわけですよ。温暖化対策は我慢することだ、できたら息をしないほうがいいんだよ、みたいなことを言うわけです。そうじゃない。この子が言わなければいけないのは、「渋谷まで自転車で行ったら気持ちがよかった、風が吹いてきた」とか「歩いていたら汗が出てきて、すごく身体が冷えてスッキリしてものすごく調子がよくなった。暑いときに犬がハアハアしているのを見て、『あの犬も同じようにしているんだ』と思った、生きているってすごい」とか「風って気持ちがいい」とか言わなきゃいけないんですよ。温暖化対策というのは、教育的に言うと、地球の生態系に気づかせ、その中で生きていることがステキだということを子供に教える絶好のチャンスなんですよ。そこがポイント。それを伝えなきゃいけない、子供には。そして子供は、「身体を動かすのが面白い」と言わなきゃいけない。それって、インセンティブでしょう。温暖化対策をし、次の脱化石文明に行くということの中の本質的な、僕らの幸せにつながるようなことを抽出してそこに気付くべきなんですよ。災い転じて福と為すというか、そういう発想が必要で、そういう情報が重要だと思うんだよね。電気自動車なんかだって、エコのために出てきているように見えるけれど、取材してみると、今のガソリン車は部品が3万ぐらいでできているんですけれども、電気自動車は三分の一とか、下手すると3000ぐらいの部品でできるかもしれないんですよ。どうしてかというと構造が単純だからですよ。モーターとバッテリーがあればいいんでしょう。ガソリン車ならエンジンがあってそこからシャーシが伸びていて四輪が動く、だから構造、骨格が決まっちゃっているんですよ、車は車でしかないんですよ、いくらデザインしても。ところがEV(電気自動車)の場合は、インホイルモーターといってモーターをタイヤの中に入れることもできますからね。そうしたらあとはもう、充電の装置と、情報を流すコンピュータがあってラインでつながっていればいい。しかもタイヤは別々に動かすこともできます。すると空間が自由になるので、設計の選択肢が増して、これでも車なんですか、みたいなものができる。言いたいことは、エコだエコだと電気自動車を言うけれど、電気自動車を作ってみたら車を越えるすてきな車ができちゃったということですよ、つまりワンステップ上の移動体ができたわけですよ。災い転じて福と為った。電気自動車は、これから、それが分離して一人が動いていくためのモビリティになってもいいし、そのまま家に上がっていってベッドになってもいい。今流行りのBMIみたいな、人間の神経系と接続するようなロボットやマシンになってもいい。人間と機械の関係をものすごくドラマチックに変えるツールだと思う、電気自動車は。そこが面白い。新しい技術文明が生まれる入口のようなところがある。そして、そういう電気自動車を若い人は「カッコいい」と思うのね。そうすれば放っておいても売れるんですよ。エコのために電気自動車を買う人もちょっとはいるかもしれないけれど、本音はそうじゃないよね。乗ると楽しいから買う。すると、電気自動車の楽しさは、今までの車とぜんぜん違う大きな可能性がある部分とつながっている。今は、危ないから音をつけているけれど、人がいないところでオープンカーの電気自動車に乗ったらすごいよ。星空を見ながら音もなく走るんですから。もうね、グライダーに乗っている感じですよ。まあ贅沢贅沢。今までの車とぜんぜん違うじゃん、という感じです。温暖化や環境問題については、そういう何かポジティブなものを抽出しながら。やはりポジティブなものが僕らを引っ張っていってくれて、同時に今までの問題も解決するような仕組みにしないとぜったい続かない。それに、やっている側も暗くなる一方だと思います。だから、知恵と感性が必要だと思います。結局は、人間を信じるということなんですけどね。もう温暖化で人間は終わりかもしれませんけれど、いやまだまだそうじゃない、人間の知恵ってすごいぞ、もっとすばらしいフェーズに行けるかもしれない、と。考えてみれば、今までの煤を出しまくって化石燃料をバカバカ出していたその時代をやめて、自然のいろんな生態系の中で生き方を探していくほうがいいに決まってる。海だって汚れないし。空も山も美しい。それを構築するんだ、と考えれば、みんな行動すると思います。それをそれぞれの生活の中で実感して行動につながるような循環システムが必要だと思うんです。新聞でもテレビでもメディアでもいいんだけれど、「こうしてみたらどうか」と言って、やってみたら「あ、なんかいいかも」と思う。するとまたテレビを見て、今度はこんなことはどうかとまたやってみる。というような、そういうことで、情報系と自分の情動系が連鎖していくような、そういうメディアの状況というのは、電通なんかにがんばってやっていただければ(笑)。NHKはテレビしか能がないけれど、多面的なメディア状況があれば。それから、一人一人が選択できる、ということですよね、いろんな情報や行動を。そして、選択してポジティブにやるときって、僕ら、幸せじゃないですか。「何をやってもいいんだよ、自分で考えていいんだよ」と、そのときは幸せ。二酸化炭素のことを言うならば、自分の行動でどれくらい二酸化炭素が増えたり減ったりしているかをもう少しガラス張りに、わかるようなシステムがいりますね。わからないからよけいに実感がないわけで。ゲームでもあるじゃないですか、「あなたは今こんな状況です」とか。ハイブリッドカーなんかは「今これだけ燃費が増えました」とリアルタイムで出る。あんなような、ガラス張りの情報みたいなのがないままやりなさいと言われても、わからない。そういうのが必要じゃないでしょうか。ゲーム感覚でできること。

■■今まで取材されてきて、「これを伝えたいけれどテレビで伝えるのは難しい」といったテーマはありましたか。

Answer ありますね。絵にならないものを伝えるのはとても難しいですね。本当はそれを伝えなきゃいけないんだけれど。だから絵になるものばかり追いかけていく。そりゃ、絵のメディアなので、映像のパワーを全開させていくためにはよく見えるものでやるほうが手っ取り早いんだけれど、たとえば物事の概念だとか哲学的なもの、要するに見えないものを伝えていくのはとても難しいですね。僕がプロデューサーをやっていて解説委員になったきっかけは、もうそれに飽きちゃったからです。たとえばNスペをやるでしょう、3年で一本作るというのもやった。できたものはすごいんですよ、映像とかコンピュータグラフィックを使って。お金もある程度使わせてもらって。それでNHKでバーンと出すと、映像が持っているパワーってすごいから、一応一定の社会的インパクトはあるんです。だけど、長い筒で世の中を見ているような、そんな感じがするんですよ。長い筒の中は映像の世界。そこから世の中を見ると、映像の世界ではよく見えるわけですよ、テレビおよび映像の世界。だけど世の中って、絵になるもの以外の周りがもういっぱいあるじゃないですか、絵にならないものとか、もっと複雑なメカニズムで世の中は動いている。だけどテレビ屋は下手すると絵になるものだけで世の中が動いているような錯覚を持っちゃうんです。そして、映像で世の中を動かせるという錯覚を持っちゃうんです。それがイヤになった。映像じゃなくて音声でもいいじゃないかとか、いろんな表現形態がありますね。音声でなくても、建物の設計でもいい。たとえば、自分で飲み屋を作ってある空間を構築して、そこに来ている人が酒を飲んで何も言わずに帰る。その客が店を出るときに感じているものこそが自分が伝えたいものかもしれないじゃないですか。物事が伝わるというのは多様です。それでもう、人間と金をいっぱい使ってチームを作ってNスペを作るのはやめて、少し他のこともしてみようかなと解説委員になった。僕は今もう、たとえば1万円で1時間の番組ができますからね。僕が喋ればいいんだから。自分で書いて喋ればいい。もうゼロでもいいですよ、喋るだけで番組があるならね。自分の身体をメディアにして、「こんなことがありました」と喋ったり、「これがその人が持っていたものです」と見せたり、「よくわからないけれどこんな世界、風景でした」と見せたり、「僕が撮った写真で下手なんですけど、こんなところです」と見せたり、それもメディアだと思う。健全かもしれない(笑)。3年かけてコンピュータグラフィックスにしてその世界を表現するよりも、見てきた僕が今「すごかったですよ、こんなですよ、とりあえず伝えておきます」と。3年待たなくてもいい。しかもそれが1万円で伝わる。ちゃんと見たい人は3年後に見てください、でもいい。解説委員というのはそういう、ものを伝える人間の原点みたいなところがあるし、自分が一人のディレクターで一人で番組をやっているようなもの。そのほうがいいかな、と。一人で取材に行けば、カメラの前ではぜったいに見せてくれないようなものも見られることがあります。「撮りません、見るだけ」「それならいいですよ」ということもあるから、じっと見て、いろいろ聞く。カメラは回っていない。僕はその見聞きしたことを伝えればいいわけでしょう。それもメディアだと思います。
 今まで僕ら、大きなハイビジョンカメラ、あの大きな図体が邪魔して、入りたいけれど入れないこともありました。でもカメラなしでふらっと一人で行けばいい、何ならメモもとりません、だったら、それならいいですよ、ということならば入っていける。

■■たとえばどんなものですか。

Answer まあ、いろいろ(笑)。そんなようなこともいいかな、と思ってやってみると、昔のようなどでかいNスペがどうだというようなものではないけれど、これもアリだな、と思う。こういう多様なやり方で物事を伝えていくようなシステムをNHKNHK以外のところも持ち、さっきの飲み屋のような例も含めて、そういうメディア状況があるといいな、と思います。放送というのは、返り点を打ったら送りっぱなしでしょう。僕らの仕掛けはでかすぎて、送りっぱなし、言いっぱなし。本当は双方向になっているほうがコミュニケーションはすごく成立するんだけれど、それを許さない。これからはもっといろいろなメディアが出てくるので、放送の本質として残るのはリアルタイムのニュースとか第一級の大作の2極だと思う。中トロ(?)のところはたぶんなくなると思うんですけれど、メディア全体で言うと、そうだな…、テレビは百科事典の索引みたいな感じかな。本の索引。早くて、こういうのがありますよ、とパパパッと。で、ここをクリックすればもっと深い情報が別のところにありますよ、と。僕らはそこはやらないけれど、とりあえず勘どころはここですよ、というような。あとはどこに飛ぶか知らないけれど、そこに専門的なものがあって、それと連携した全体としてメディアの複合的な構築ができているような。そういう社会だったらいいんじゃないかと思うんですけどね。今それがバラバラ断片的になっているので、もうちょっと何かないかと。

■■科学番組で特にうまく伝わらないというところは?

Answer 今、科学技術の革命は人間の五感で感じ取れないところで起きています。昔は、水俣病をやるときに水俣病の被害者を追いかけても、状況をキチンと背負っている人物がいて状況が伝わったわけです。ところが今の革命は遺伝子レベルで起きたり、ナノテクがどうのDNAがどうの、それから人間の脳の中のニューロンのつなぎ変えによる変性意識がどうだとか、僕らが見たり触ったりできないようなところで世の中を本当に変える革命が起きています。だからしょうがないからCGを作るわけですが、それはウソの世界なわけです。目の前でつかめるようなことが起きているときにはカメラはものすごく強いんです、圧倒的に。百聞は一見にしかず。そういう時代があった。でも今は、タレントが泣いたり笑ったりは撮れるけれど、本当に世の中を変えるような大革命はカメラでズームインしても撮れないんですよ。そういうところで物事の変革が起きているから。だからしょうがないからあれやこれや演出し、CGを作って僕らは映像を作っています。そういう意味で言うと、科学番組の伝えにくさは今の科学の状況そのものがそうさせている。だから科学番組は変質しなければいけないし、ひょっとしたらもう、ある意味使命を終えているかもしれない。そうでないことを願いますが…。NHK的に正しい答えは「昔と違う新しい科学番組を開拓しなければいけない」。見えないものをわからせる、その手法を開拓する必要があるというのが表向きの答えです。

■■よく、社会的な事件も、デモとか大規模事故から、ネットで起きているような犯罪になってきて映像がとりにくいということを聞いたことがあります。

Answer そうですね。だからやらせが起きたり変なことになるわけです。絵の奴隷になっている感じです。絵が撮れなきゃ成り立たないと思っているから。それから、取材体制にもよるかもね。カメラマンと何人かのチームで撮らなきゃいけないというのが大きすぎて。今、ビデオジャーナリストっているじゃないですか、あんなのでもいいしね。なにもそんなものすごく立派なカメラで撮らなくても、映ってりゃいい場合もあるじゃないですか。けっこう絵がジャジャボケでもね、映っているすごさからいうとものすごく価値のある絵もある。取材体制そのものは最近変わってきてはいるけれど、まだ昔の取材の常識に縛られているのもあるかもしれない。それから、デスクやプロデューサーが「撮れてナンボだ」みたいなことを言うから、若い奴はもう撮らなきゃ撮らなきゃみたいになってしまい、撮れない場合はヤラセをやったり、ということなんじゃないですかね。あるドキュメンタリーであるシーンを追いかけているとするでしょう。そのシーンを撮るのはものすごく大変なんですよ。たとえばAさんのドキュメンタリーで、Aさんが本当にシンボリックな発言をするためにどれだけ僕らが準備するかというと、たとえば、もう1年前からやることもある。僕なんか、ある人の家に3ヶ月間、カメラを持たずにカメラマンと一緒にずっと行っていたことがある。そうやって信頼関係ができて、その人にある場所であるタイミングである質問をすれば初めて出てくる言葉、というのがあるんですよ。行って「はいどうぞ、貴方の人生の教訓は?」なんて言ったって、ぜったい言わないよね、言えるわけもない。これはやらせではないんですよ。状況づくり、仕掛けですね。どういう状況を作ったときにその人がいて、どういうふうになったらその人がいちばんいい顔をして言ってくれるか。その10秒間の絵のためにどれだけ準備するか。撮れてナンボ、とは本当はそういうことなんですよ。「撮れなきゃヤラセをやれ」といった安い話じゃなくて、本来のテレビ屋の仕事というのは、その映像を撮るために、どれだけ僕らが状況を理解して勉強して、いろんなことを予知していくか、ということが試される。あらゆる僕らの準備や人間力が試される、その反映としてのワンシーンなんです。だから、そのシーンを撮ったディレクターというのは偉いんですよ、僕に言わせれば。誰にでも撮れることじゃないんです。「ああ、君だからやれたね」というような、それがもう勲章なんですよ。そういう番組を評価しなくてはいけないし、それがあれば映像メディアは生き残れる。ただ映すのと撮るのは違うんです。そこが誤解されることがあって、映ってりゃいいんでしょ、みたいな何か安いことではない。カメラマンでも、同じ風景を撮っていても名カメラマンとダメな人とではぜんぜん絵が違うでしょう。あれですよ、あれ。なぜあの人は、同じ植物を撮っているのにこのリアリティはなんなの、みたいなあれです。

■■社会調査なので、語っている中にヒントがあれば、と。今まででも十分なヒントがたくさんありました。

Answer では、ラストクエスチョンをください。

■■テレビでは音と映像で、今は匂い、触感、手触りや感覚は伝えようがない、伝えるのが難しいと思いますが、科学番組にしてもドキュメンタリーにしても、そういうものを伝えたいことがあったかと思います。そういうときの工夫は? やりたかったけれど伝えられなかったことはありますか?

Answer たとえば牛舎に行っても糞の臭いは伝えられないから、映像で糞を撮るのかな。
 だけど、映像、視覚情報ってものすごく強いから、「この匂いがないと伝わらない」ということはないですよ。視覚情報はものすごく強いですよ。だからだいたいなんとかなる。この匂いも伝わったらいいな、と思うけど、匂いがないと成立しない、と思うことはそんなにない。なぜでしょうかね?僕、思うんだけれど、視覚触覚、いろんな人間の感覚があるけれど、結局、そんなことどうでもいいんじゃないか。たとえば目の見えない人がものを触って到達する世界と、目が見えている人が到達する世界は、同じところを触っていると思うんですよ。たまたま僕らはいろんなセンサーで自分の精神世界を作って、進化の中でも五感というものを持っているけれど、目が見えなくても耳が聞こえなくても、手がかりさえあれば人間というのは精神世界を作るじゃないですか。そういう僕らの脳の中に生まれている世界が重要でしょう。だから、視覚に合わせて匂いがあったらいいとたしかに思うけれど、べつに大したことじゃなくて。逆にいうと匂いだけでも構築できるかもしれない。そんな気がする。問題は、情報を取り込んだあとに脳の中でそれが再構成されて、本質的なイメージや意味が形成されるそのプロセスが重要なのではないか。それを誘発するような情報提供の仕方をしてやればいいわけだと思う。料理番組で「いい匂いですね」と言ったときに匂いがしたらいいけれど、なんか、うん、それを求めている人ももちろんいると思うけれど、本当にそういうことなのかな?と思うんです、僕。見ている人はそれを求めているのか?とときどき思う。この間、落語を聞きにいった。上手な落語の人というのは、僕が座っていてあっちも座っていて目の前でやるんだけれど、その人の一言でその人の背景に世界がワーッと見えることがあるじゃないですか。落語家は、僕らの頭の中のいろんな記憶を一本釣りしているわけですよ、言葉で。僕らは頭の中で自分で演じてイメージを作っている、落語家が僕らを操って、僕らの中にそれを作らせてくれているわけじゃないですか。ああいうのを見るとね。たとえば文珍さんが「このウナギうまいね」と言っているときにウナギの匂いが演出でしてきてもね、アホか、と思うでしょう。むしろ邪魔でしょう。僕らが楽しんでいるのはそういうことじゃない。文珍さんがウナギを食べるときのあの仕草が僕らの中にものすごい強烈なものを作るから楽しんでいるんでしょう。そこの横でウナギを焼かれたらもう、いいかげんにしてくれ、そういう安いことをするな、でしょう。

■■しかも、自分の頭の中で描いている匂いと違う匂いだったりした暁には(笑)。

Answer そう。自分の頭の中で描いている匂いは匂いじゃないと思いますよ。頭の中の匂いのイメージは、匂ってくるものとは違う、もっと昇華されたシンボリックな情報なんですよ、たぶん。ウナギの素晴らしさみたいな、匂いやらテカリやらいろんなものがミックスしたものが脳の中でワーッと出てきていて、それを食っている口元を見ているからよだれが出てくる、みたいなことで、それは、匂いがしますとか触ったらヌメヌメしますとか、そういう低次元の情報じゃないんじゃないでしょうかね。そういうことを誘発するような詩とか情報提供とか、そういうものが問われているのだと思います。よく「匂いのするテレビがあったらいいね」とか言うけれど、僕はぜんぜんそう思わないね。なんか安っぽくてイヤだというかね。そういう感じがするんですけど、どうですか。

■■『Dialog in the Dark』を体験しに行ったあと、茂木健一郎さんがその方々と真っ暗な中でトークショーをされて、それにも行ったんです。本当に真っ暗なんです。公共機関はふつう非常灯を点けなければいけないんだけれど、消防庁か何かに許可を取って本当に真っ暗にして。そこで語っている中の一言がありました。見える人と見えない人との会話なんですが、見えない人からすると、実は見える人が何を考えているか、次に何を言うのかが見えるんですって。わかるんですって。その言葉にゾクッとしました。室山さんがおっしゃるように、見えるとか見えないとかいうことが到達する先に、実は同じものがある、それは驚きでした。

Answer 重要なことは、インプットとアウトプットが細くてもいいから保証されていることが大切だと思うのね。閉じ込め症候群みたいに、もう出てこない、頭の中で考えているけれどアウトプットがゼロだ、という場合は地獄かもしれないね。でもわずかなコミュニケーションのつながりがどこかにあれば、それが音声であろうが何であろうが、人間は何とか分かる。今BMIという細胞技術で植物状態の人と会話するようなものを作ったりしているでしょう。手も動かない口も動かない人と会話するためにIT技術を使ってやれるような。それは、わずかな線を保証してそこでコミュしようとしている。それさえあれば人間はなんとかなると思うんですけどね。そんな感じです。

(日本広報学会2008-2009年度感性報道価値研究会研究活動報告書から。広報学会研究活動インタビュー)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »