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「おーい、ニッポン」との出会い2001.3.3

(「おーい、ニッポン」の不思議な魅力)2月18日日曜日、「おーい、ニッポン~今日はとことん福島県」では、世界有数の豪雪地帯、福島県只見町から、終日数回にわたって、農家のくらしを生放送した。タレントのきゃんひとみが、家の人と打ち解け、談笑しながら漬物のつけ方を教わったり、生活の智恵の数々に感心したり、おばあちゃんに縫い物の仕方を教わったりしながら、のんびりとした時間が流れていく・・・。そんな中継だった。この日は、家の最長老、貞子おばあちゃんが97歳の誕生日を迎えた日だった。驚くべきことはそのあと起きた。きゃんがテレビに向かって「おばあちゃんにお祝いのファックスを」と呼びかけたところ、300通ものファックスがあっというまにあ手元に寄せられたのだ。「貞子おばあちゃん!お誕生日おめでとう!!」「おばあちゃんの笑顔がとてもかわいい!」「見ていて涙が出た。ふるさとに帰りたい!」などなど・・・。まるで実家の祖母への手紙のような、親しみと愛情に満ちたファックスばかりであった。われわれスタッフは飛び上がらんばかりに驚いた。天気のいい日曜日の8時間、テレビのブラウン管に映された見知らぬ農家の日常に、これほどの反響があるとは予想していなかったからである。「おーい、ニッポン」を見ている人々が、何かしら見えない糸でつながれ、ひとつのバーチャルな家族をなしているような、不思議な感覚だった。「おーい、ニッポン」の接触率は最近快調で、10%を越えることがよくある。先ほどは15%を記録し、人気は高まる一方である。これはBSの放送としては特筆すべき数字だ。いったいそれはなぜなのか・・。担当している私たちですら不思議に思うことが最近よくあるのだ。(連続8時間!驚異の生放送番組)私は去年の夏の人事異動で衛星ハイビジョン局勤務となり、「おーい、ニッポン」プロジェクトの事務局長となった。入局以来、主に科学ドキュメンタリーを制作してきた私にとって、このようなタイプの番組は初めてで、新鮮な驚きの連続だった。もっとも大きい驚きは、「8時間連続」という前代未聞の長さの生番組だということである。かつてテレビが始まった頃、放送といえば「生」番組が当たり前だった。ドラマですら「生」で、効果音や音楽を生で当てながら、冷や汗たらたらで放送に望んだと当時の様子を記録した本に書いてある。しかし、番組の情報量が濃密になり演出も複雑化する中、VTRという便利な技術が開発され、収録、ポスプロ(収録した映像をあとで編集したり、加工したりすること)による番組制作が、今では主流となった。収録した映像を編集できるため、カメラの取り損ないや、不要な部分をカットし、論理の流れを整理し、わかりやすく、かつハイレベルな作品が作れるようになった。しかしその一方で、「あとで編集でごまかせばいい」といったような安易な製作態度が生まれ、緊張感のある映像がとれないディレクターやカメラマンが増えたという批判もある。現在のテレビ制作システムの中には、番組からリアリティーが消え、「作られた」「嘘っぽい」感じのものになる落とし穴があると、私も思う。いま、NHKはいくつもの生放送番組を放送しているが、「おーい、ニッポン」は、その中でもことさらにすさまじい。「おーい、ニッポン」は8時間の番組を、4~5つの中継グループをつなぎながら作られていくが、その中で最も激務なのが「とことん」中継班。地上から、宇宙空間に浮かぶ通信衛星に電波を飛ばし、生中継を可能にするCSKという中継車を駆使して、旧来なら1~2箇所しか中継できないところを、7~8箇所、多いときで10数箇所から次々と生中継していくのだ。しかしこのシステムだと、スタッフと出演者は想像を絶する状況に追い込まれる。「とことん」中継には、中継車に「癒し系タレント」として親しまれているホンジャマカの石塚英彦さんが乗り込み、次々と中継地を変えていくのだが、現場についてなんと5分後に中継なんてこともある。石塚さんは初めてみた現場で、わずか5分後にすべてを理解し、相手から話を引き出し、なおかつジョークで人々を笑わせていくのだ。これを神業といわずになんといおうか。昔の中継スタッフが聞いたら卒倒するような離れ業である。「おーい、ニッポン」はけっして洗練された繊細な作りではないが、現実と格闘し、リアルな世界で勝負する「生放送」という、テレビジョンの本来の「野性」を秘めている。その野性こそが「おーい、ニッポン」の最大の魅力なのだと思う。(生まれ育った人にはかなわない)「おーい、ニッポン」の放送が進むにつれて、スタジオのゲストがつい涙ぐんでしまうことがよくある。「おーい、ニッポン」では、永井美奈子さんのようなメインの司会者をのぞいて、できるだけその県の出身者に出演していただくことにしているが、それは、どんなに優れた出演者も「生まれ育った人にはかなわない」という我々の信念から出たものだ。ゲストの方々は、最初はクールに我が県のことを語っているが、次第に懐かしい風景や人々に引き込まれ、懐かしい食べ物をスタジオで味わうにつれて、話が熱を帯びてくる。そして時々方言が口をついて出始め、自分が子供の頃に見聞きした個人的な話を目を輝かして話し始める。番組の司会は永井さんとともに、その県出身のNHKアナウンサーにお願いしているが、テレビで見るあのアナウンサーとは別人ではないかと思えるような表情で、情熱的に語る姿に驚くこともしばしばである。ただ単に情報を伝えるのでなく、その県への思いが言葉の端々にあふれているのだ。以前こんなことがあった。「とことん兵庫県」のスタジオ出演者の大村昆さんが、神戸市内のアーケードを映し出す風景の中に、駆け出し中に苦労をともにし、その後ゆくえがわからなくなった友人を見つけ、涙のやりとりをしたとき、周りの人が深い驚きと感慨に包まれたことがある。そのとき、私は「ふるさと」がもつ、底知れぬ懐の深さを改めて強く感じた。

このように「おーい、ニッポン」をやっていると「ふるさと」が持つ圧倒的なパワーを体全体で感じることが多い。「ふるさと」を語ることは、自分という存在の深淵を語ることと同じなのだ。(「ネタより人を」)

テレビディレクターはネタに敏感だ。テレビになりそうなネタを探すことこそ、名作への近道だともいえる。しかし、「おーい、ニッポン」の場合、ネタを追いかける視点だけでは番組は作れない。限られたローカルエリアで、8時間もの長さの番組を満たすネタを探すのは至難の業なのである。「おーい、ニッポン」のチームには「ネタより人を」というキーワードがある。たとえばおいしいお菓子の情報をカメラで伝えている場面を想像してみよう。「ネタ」の発想で行くと、お菓子の形、色、味わいなどをできるだけ克明に伝えることで中継を展開していくことになるだろう。もしかしたら顕微鏡でお菓子の組成を分析するところまで行くかもしれない。

しかし、その発想ではせいぜい数分のリポートしかできないだろう。カメラをお菓子から上にパンアップしてみよう。そこにはそのお菓子を作った人がいるではないか。「ネタより人を」の発想は、お菓子の細部に埋没する前に、その菓子を作った人物に視点を定め、その人の世界を伝え、背後の広がりを描いていこうというものである。人間は情報の宝庫だ。人間こそ「おーい、ニッポン」の最大関心事なのである。(忘れられないあのシーン)「おーい、ニッポン」には、「川の流れのように」などの作品で知られる作詞家の秋元康さんが作る「県の歌」というコーナーがある。その県在住の人からオーディションで選ばれた1グループが、秋元さんが作った「県の歌」を番組の中で歌うという企画である。

去年7月、神戸放送局が放送した「おーい、ニッポン~兵庫県」のとき、秋元さんはおびただしい参加者の中から浜田さんという小学校の先生を選んだ。浜田先生は、子供達に絶大な人気を持つ金八先生タイプの人情味あふれる教師で、子供を取り囲む社会環境や教育の在り方を悩んでいた。

秋元さんが作った歌は「しゃんとせえ!」という歌だった。/背中の悲しみは/忘れられる日が来る/最後の微笑みは/覚えているだろう/おまえは一人じゃない/振り向けばいつだってみんながいる/由良の砂浜を駆け抜けた仲間達/(中略)/おまえは一人じゃない/それぞれの人生が始まっても/孤独な季節には帰ってくればいい/しゃんとせえ!/しゃんとせえ! (秋元康作詞「しゃんとせえ!」より抜粋)この歌は、悩む子供達に「しゃんとせえ」と励ましの言葉をかけ、一緒に生きていこうとする浜田先生の生き方そのものを歌ったような歌だった。この歌は、「おーい、ニッポン」のメイン会場に選ばれた神戸港で、暮れなずむ夕日の中で歌われた。私はあの阪神大震災の時、クローズアップ現代とNHKスペシャルのチーフプロデューサーとして災害報道にあたっていた関係で、港から見えるあのころの風景を良く覚えている。震度7という激烈な力が神戸の町を破壊し、ビルはがれきのように崩壊していた。至る所で火災が起き、黙々と立ち上る煙。亡くなった多くの人々と渦巻く悲劇。神戸の町は絶望の淵に沈み込んでいた。しかし、浜田先生が歌ったその日、港から見える神戸の町はあの日から見事に復興していた。りんとしてそびえるビルの姿は、太陽の光を浴びて輝いているように見えた。けれども耳を凝らすと、その背後から苦しみに耐える声が聞こえてくる。神戸の町は、あの日の記憶を深く沈殿させ、今もなお復興に向けて懸命に格闘中なのだ。浜田先生がそんな神戸の町を背に歌う「しゃんとせえ!」は、歌を聴くものの胸に強く迫り、立ち直ろうとする人々の心を、激しく揺さぶり、勇気づけるものだった。会場で歌をきく人の中に、涙ぐむ夫婦や手を合わせる初老の婦人もいた。私はその光景を見て、「おーい、ニッポン」というプロジェクトに参加していることを誇りに思った。(これからの「おーい、ニッポン」)先日放送された「おーい、ニッポン~福島県」は、第1回の富山県から数えて23本目である。「おーい、ニッポン」は日本中のすべての県を一巡するまで終わらない。計算ではあと27回。3年かかる計算になる。「おーい、ニッポン」に関わっていて、やればやるほど強く思うことがある。

それは、日本にはこんなにも多様な自然や文化があるのかということである。一つの県の中にも、いくつもの文化圏が共存し、互いに刺激しあい、融合しあって、今も進化を続けている。地方に残る文化は豊穣だ。たとえば言葉(方言)のニュアンス。私の出身地の岡山県の方言を例にあげよう。岡山弁では、傷などが「しみる」ことを「はしる」というが、「はしる」は厳密には「しみる」と同じ意味ではない。傷口の表面が焼けるような感じでしみるという意味なのだ。この言葉に合致する標準語がないことを思うと、方言や地方文化の世界の豊かさ、多様さを改めて感じる。生物学の世界では生物の遺伝子の保存が重要だとよく言われる。それは遺伝子の多様性が生命進化を押し進めていく原動力だからである。それと同じように、日本の文化や社会の将来を考えるとき、この文化の多様性が、私たちの国の未来を創りあげる「種」になるのではないだろうか。「おーい、ニッポン」はこれからも日本各地の多様な姿を、楽しみながら、丁寧に、愚直に掘り起こしていきたい。日本が地域から元気になっていく日を夢見ているのだ。(文責)衛星ハイビジョン局CP 室山哲也(「おーい、ニッポン」事務局長)

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