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ロボットシティへの質問2004.10.6

ロボット特区で感じたこと)今年の3月、ロボット特区に指定された博多と北九州市で、ロボットによる初の公道移動実験が行われた。ロボットを今までの実験室から外に出し、実際の生活の場でロボットを移動させ技術的課題を探ろうというもの。いつもは研究室や建物の中で歩いたり仕事をしている警備ロボットなどが借り出され、商店街を練り歩いた。北九州市では、数百メートル離れたイベント会場から遠隔操作でロボットを動かし、モニターと音声マイクを頼りに商店街で買い物をする試みも行われた。ぜひその実験の様子を見たいとかねがね思っていた私は、急きょ東京から九州入りし、勇んで商店街の様子を見に行った。すでにロボットの周りは黒山の人だかりとなっていた。物見高い市民、子ども達、そして何よりもマスコミの人間が興奮したように取り巻いていた。その真ん中にいつもは建物の中で警備をしているロボットが、何が起きているのかわからないような様子で、じっとたたずんだまま操縦者からの指示を待っていた。「ロボットだあ!」と叫んで小さな子供が駆け寄る。「なにやっちょっとね?」と不思議そうに老人が近づいてくる。「かわいい!」とアベックの女性が甘えたような声を出し、彼氏の腕にしがみつく。時々「道んなかで邪魔じゃろが!!」と怒る老人なども出てくる。混沌とした時間の中で、市民たちの好奇心がいやがおうにも高まり、このロボットが一体何をしでかしてくれるのか、期待と興奮は頂点に達しようとしていた。「ががが」とロボットが動きだした。「おーーー!」という感動の声。少しだけ動き始めたロボットにまとわりつくように、黒山の人だかりが移動していく。ロボットが止まる。黒山も止まる。ロボット動く。黒山動く。やがて雑貨屋の前まで来て、ロボットから声が出た。「買イ物シタインデスケド・・」。

まってましたという風に店の主人がでてきて、「何が入用でしょうか?」と一世一代の声を出す。マスコミは、滝つぼで聞くような音を立てながら、カメラのシャッターを切りまくる。うまく撮影できず、『もう一度やって!』などと、怒るカメラマン。言葉がわからない振りをして、ひじで後ろのマスコミを阻止し、優位な位置をキープしようとする外国のカメラマンなど、周辺は騒然とした状況となった。周囲のすったもんだと対照的に、すんなりとロボットの腕に商品がぶらさげられ、ロボットはそののち少し動いて、実験はあっけなく終了した。「もうおわり?」拍子抜けしたような子供の声が聞こえた。その日の新聞やテレビのニュースでは「ロボットが町でお買い物!」とか、「ロボット市民誕生!」とかのニュアンスの報道が流された(実は私もテレビで同様のリポートをした一味である)。あとでこの記事を読むと、現実の雰囲気はなかなか読み取れないと感じた。実際のロボットは、華やかな報道とは少し違い、なかなか動かず、動いても思うように歩行できず、買い物の品物もうまく掴めないという状況だった。見物の市民の中には、ロボットが思うほど派手に動かないことを知ると、次第にいらついて「壊れてるんじゃないの」と不満を口にしはじめる人も出てくる。中には「なんだこんなものだったのか」と落胆の表情でその場を去る人もいる。ロボットへの期待と現実とのギャップ。私は「うーむ」とうなった。ロボット開発という観点から見れば、ロボットがうまく動かないのは当然のことだ。だからこそこうして実験をしているのではないか。ロボットはまだ進化の途上なのだ。その中で奮闘している研究者の苦労を、市民はなぜ理解できないのか。(マスコミのロボット報道)しかし、落胆する人の気持ちもわかる。

なぜなら常日頃、マスコミを通じて流されるロボットの映像は、目を奪う素晴らしいものばかり。そういう映像を見慣れている市民が、目の前のロボットに過大な期待を寄せても、少しもおかしくはない。このギャップを作りだした犯人は、マスコミなのではなかろうか。私はテレビで30年近くディレクターをしてきた。撮影した映像の都合のいい部分をつなぎ、モンタージュしていけば、その動きのエッセンスだけで、あたかも素晴らしい動きをしたかのような映像が簡単に作れる。映像に感動的な音楽や、意味深いコメントをつければ、さらにありがたみが増す。それを繰り返していると、番組やニュースの中で、ロボットはしだいに神秘性を帯びた存在になっていく。そのうち、ロボットが、運動能力や判断能力はもとより、思考能力ですら人間を上回っているような幻想が生まれてくる。そして現実から乖離した『ロボットのイメージ』が形作られていく。「ロボットが世の中に知られるのなら良いじゃないか」という意見もある。確かにロボットに対する市民の期待が大きければ、研究を推進する大きな原動力となるし、予算も獲得しやすいかもしれない。しかし、私はこのイメージ先行の状況が、ロボット研究にとっても、実は好ましくないのではないかと思うようになってきた。マスコミはそのことに責任をとるべきではないかとも思うようになってきた。ロボット社会が来るのはおそらく間違いない。ロボットは、私たち社会に何らかの形で入り込み、一定の役割を果たすだろう。しかし、アトムはまだ誕生していない。誕生することになるアトムがどのようなものなのかも、誕生してみなければ判らない。つきあってみなければどういう存在かも判らない。人間にとってどのような仲間なのか、そうでないのかも判らない。ロボットについての情報は全てがまだ断片的で、物事はまだ始まったばかりなのだ。わたしは最近、ロボットは心を持つ高尚な存在なのではなく、人間のために使われる道具なのだと、一度きちんと定義したほうがいいのではないかと思うようになった。そのことがむしろ、足腰の強い、健全なロボット開発につながるのではないかとすら思える。そしてマスコミは、薄っぺらなアトムの大安売りをやるのではなく、きちんと「人間」と「物(ロボット)」の関係を考える報道をすべきではないかと思う。(ロボットを愛するとはどういうことか)私は毎週土曜日に教育テレビで「科学大好き土よう塾」という子供番組をやっている。その中で、パンダの話をしたときの笑い話がある。中山エミリという僕の相棒が、パンダは実は可愛くないと云うエピソードを紹介した。ある日、動物園にいたエミリの友人が、遠めにも愛くるしいパンダを発見。丸っこいふかふかの身体で、愛嬌のあるしぐさでササを食べている。「かわい~いっ!!」若い女性特有の声を上げながら近寄ってみて彼女は驚いた。至近距離のパンダの目は意外と鋭く、思わず「ひいてしまった」というのだ。私はこの話がおかしく、思わず笑ってしまったが、このエピソードには人間にとっての『好ましさ』を考えるヒントが潜んでいるように思う。ロボットについて言うと、人間にとって心地よいロボットとはどういうものかという問題である。私たち人間は、一体どういうときにロボットに親近感や愛情を感じるだろうか。

その答えのひとつとして『人間に似たロボットを作る』という考えがある。しかし、人間に似ているとはどういうことだろうか。どういう形で「人間に似る」ことが、ロボットと人間の良い関係作りになるのだろうか。東京工業大学の森政弘先生は「不気味の谷」という言葉を使って説明している。ロボットが人間に似ていく過程で「不気味の谷」が次第に深くなっていくというのだ。(もちろん100%同質になれば、不気味の谷は消える。)この言葉を聞いて私は、あるホラー映画の一場面を思い出した。かわいい顔の少女が実は悪魔で、誰かを追いかけるために、階段を『体操のブリッジ』の姿で駆け下りてくるシーン。悪魔の少女は仰向けになった格好で身体をエビぞらせ、両手両足を激しく動かし、ものすごいスピードで駆け下りてくるのだ。その光景は筆舌に表せないほど恐ろしく、とてもこの世のものとは思えないものだった。人間そっくりの存在が、突然、人間らしからぬ行動に出たとき、恐ろしさが増幅されるメカニズムが人間の脳の中にあるのではなかろうか。もし、人間そっくりのヒューマノイドが、「非人間的動き」を一瞬でも見せたら、私たちの親近感は絶望的に覆され、違和感や恐怖心に変わっていくのではなかろうか。これは、性善説にたった人間が一度裏切られたときのショックに似ているかも知れない。人間に似ていないロボットの場合はどうか。たとえば人間とは似ていない不思議な動物のロボットが、時々見せる人間的しぐさが、愛くるしく見えることはないだろうか。

砂漠に住む爬虫類が、熱い砂から身体を守るため、時々片足をいれかえて立ち続ける映像を見たことがある。2本足で砂漠に立つ爬虫類は、砂が熱くなると使っていた2本の足をひょいと入れ替えて、同じような姿勢で立ち続けるのだ。

『熱そうだなあ・・。あんなときは大変なんだよなあ。。』見ているとそんな気持ちがわいてくる。この爬虫類は、人間と形は全く違うのに、なぜか言いようのない連帯感を感じるのは私だけだろうか。形だけ人間に似せた人形よりも、むしろこの異形の動物に愛情を感じてしまうのはなぜだろうか。私はこのあたりに今後のロボット開発の「ツボ」があるように思えてしかたがない。人間がロボットを「可愛い」と感じるのは、興味深い現象だと思う。しかし、そのとき興味深いのは、そのロボットがどのように出来ているかと云うことではなく、人間の脳と心がどのように出来ているのかと云うことなのではないかと思う。

たとえ木や石でも愛情を感じる人間の心の延長に、『ロボットへの愛』があるのではないだろうか。(ロボットと暮らす社会)ロボットは何のために存在すべきなのだろうか。それについて考えるきっかけになった最近の動きを紹介したい。

2年前、川崎市と神戸市に「国際レスキューシステム研究機構」という組織が生まれた。大地震など災害現場で活躍する「救助ロボット」を開発する組織だ。

実はこの組織の代表者は、1995年の阪神淡路大震災で自らの生徒が被災したある大学の助教授。ロボット工学を専攻するにもかかわらず、災害で教え子を救えなかった気持ちがこの組織を作る原点となった。そんないきさつもあり、このプロジェクトの研究は「人命救助」というひとつのベクトルで束ねられている。ロボットの形や機能は「人命救助」という目的に沿った研究の結果である。ロボットの形は実にバラエティに富んでいる。ヘビ型、蜘蛛型、小型の2輪車のようなもの。風船のようなもの、ジャッキ状のもの、ファイバーのようなもの。。。そこにはロボットと道具の区別はなく、ただ人間と共に「人命救助」に当たる救助システムがあるのみである。それらのロボットを見て私は空想した。私は燃えさかる我が家の前にいる。炎に包まれた家の中には愛する子供がいる。そのとき、白く輝く天使のようなヒューマノイドがあらわれ、あっというまに家に飛び込み、わが子を救ってくれたとする。私は感動の涙にくれ、ロボットに感謝する・・・。しかし、あまのじゃくな私の心には、何か割り切れない感情が残る。私が欲しいのはそういうロボットだろうか?いや、私が欲しいのはそういうロボットではない。私が欲しいのは、私とともに家の中に飛び込み、薄い耐熱性のベールで私を火の粉から守りながら、ともに救援に当たってくれるようなロボットである。「私の思いを遂げさせてくれるようなロボット」があったらいいなあと思うのだ。少子高齢化社会が目前に迫っている。

福祉ロボットや家事ロボットの研究がそれに向けて急がれている。この場合も大切なことは、ロボットは福祉や家事に当たる人に取って代わるのではなく、福祉や家事を行う人をサポートするという発想が大切だと思う。「「育児」のような楽しいことを、何でロボットにさせなければならないのか」という意見はもっともである。また、少子高齢化での介助ロボットを開発する予算があるのであれば、国際化を促進して外国人が働く場をつくり、国際国家を目指した方が良いのではないかという意見ももっともである。ロボットは社会の中心的存在なのではなく、人間という主人公のそばにいて慎ましくそれを支える存在でなくてはならない。人間に取って代わるのでなく、人間の絆や社会を育てるものでなくてはならない。そしてロボットにしか出来ないことをやる存在でなければならない。私が『ロボットが人間的存在だと考える前に、人間のための道具だと割り切るところから出発するほうがいい』と言ったのは、そういう思いからである。そのようなロボットとともに暮らす社会を、私は「ロボット社会」と呼びたい。(ロボット学会誌10月号)

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