「太陽系大航海時代の教育論」2023.6.12
「太陽系大航海時代の教育論」
室山哲也(日本科学技術ジャーナリスト会議(JASTJ)会長)
- 宇宙との出会い
子供のころ、野原に寝そべって星空を眺めたことがよくある。思えば大人になって、空を見上げることが少なくなった自分を、問題だなあと感じるが、子供のころの心は大きく羽ばたいていた。あちこちに見える星々は、それぞれ違う距離にあり、何千万年も、何億年もかけて光が届いていると聞いた時、胸が騒ぎ、宇宙の不思議さに感動した。歴史でいうと、坂本竜馬と、聖徳太子(今は呼び名が違うそうだ)が、同じ星空に並んでいるということになるわけで、時空を超えた宇宙の不思議は、少年の心をとらえて離さなかった。
その宇宙に、今や人類は進出を始めた。地球近傍はもとより、太陽系を超えて探査機を送り込む時代になってきた。「太陽系大航海時代」という言葉を教えてくれた専門家がいたが、まさにそのような時代に突入したのだと思う。
- 地球環境が危ない
さて、その宇宙の一員の地球だが、いま大きな問題に直面している。
ホモサピエンスが誕生して20万年。私たち人類は、科学文明を築くことで、豊かな生活を手に入れたが、一方で深刻な文明の隘路にはまり込んでしまった。
オックスフォード大学が、2015年に発表した「人類滅亡12のシナリオ」には、人類の未来を左右するさまざまな項目が並んでいる。もし人類が滅亡するとしたら、どんなプロセスをたどるかという、論考だ。
その原因として、「核戦争」「生態系の崩壊」「グローバル経済での格差拡大による国際システムの崩壊」「巨大隕石衝突」「大規模火山噴火」「バイオハザード」「ナノテクによる小型核兵器開発」「人工知能」「超汚染物質や宇宙人の襲来など未知の出来事」「政治の失敗」「パンデミック(新興感染症)」などと並んでいるが、一番最初に「気候変動」が挙げられている。人類社会の発展で放出された、温室効果ガスが、地球温暖化を誘発し、その結果、地球の水循環が擾乱され、気候変動問題が発生してしまった。
この根幹には、人類の人口の急激な増加がある。
5万年前、人類の平均寿命は10年ほどだが、今よりはるかに多くの子供を産んでいた。しかし、人口はわずかに増える程度だった。その後、農耕が始まり、食糧が確保しやすくなり、人口が増え始めた。紀元前8000年ころで500万人、1世紀ごろで3億人、19世紀初頭で10億人、そして20世紀に入って急増をはじめ、1960年には30億人、1987年には50億人、2010年には70億人を超え、ついに国連は、「80億人突破」の報告をするに至った。
産業革命以降、食料問題の解決と相まって、私たちの生活は格段に豊かになってきた。しかしその反面、地球環境に大きな負荷がかかり始めたのだ。
エコロジカルフットプリントという指標でみると、人類は、すでに地球1・7個分の生活をしており、今の文明のパターンのまま、人類全員が日本人の水準の生活をすると、地球が2・8個、アメリカ人の水準の生活をすると、5個必要になるというデータもある(14年データ)。
地球は1個しかないわけで、このままでは、地球環境は疲弊し、資源は消耗し、私たち人間は、持続可能な生活を続けることはできなくなる。
これからは、私たちは「地球1個分の生活」をしながら、持続可能で、しかも豊かで質の高い生活をする方法を探さなければならない。
私たちを悩ませた「新型コロナウイルス」も、実はこの構図に密接に関連している。新型コロナは、増加を続ける、新興感染症の一つだが、その原因は、人間社会の開発によって、自然界の奥深くまで、人類が進出し、未知のウイルスに触れることにある。野生動物には、多くのウイルスが取り付いているが、人間が未知のウイルスに遭遇した場合、免疫がないため、病気になったり、また、体内で変異が起き、人間の間で伝染するウイルスに変身してパンデミックが発生する。新型コロナは、私たちが、地球の資源や環境とバランスをとった、持続可能な社会を作る必要があることを教えてくれている。
- 「宇宙」の視点で解決できるか
このような地球規模の問題を、どう解決していけばいいのだろうか?
私は、そのカギの一つに「宇宙」があるのではないかと思う。
以前、ある数学の世界で著名な学者に、多元方程式について聞いたことがある。私は文科系なので、ほとんどわからなかったが、一つだけ記憶に残る言葉があった。それは「次元を上げれば、課題が解決する」という言葉だった。一次元の線上でぶつかり合う点と点は、二次元の面になれば衝突しにくくなる。二次元で衝突する事象は、三次元にすれば解決しやすくなるという風な言葉だった。文科系の私の脳でも理解できそうな気がした。この話を宇宙に当てはめるとどうなるだろうか?今、地上では、様々な深刻な、地球規模の問題が起きている。しかし、この問題に「宇宙」からの視点を入れ込むと、一つ次元が上がり、解決に迎えるのではないかというわけだ。
考えてみれば、地球観測衛星や通信衛星、測位衛星が、陸上のネットワークを進化させ、新しい社会のフェーズに入っているので、おそらく正しい指摘だろう。
しかし、気候変動のような地球の危機(実は人類の危機)を解決するほどの、道筋が存在するのか、私にはわからない。
ただひとつ、あるエピソードを思いだし、そこから何かが学べないかと思ったので、ご紹介したい。
それは、アポロ13号のエピソードだ。そのいきさつは、「アポロ13」という映画でも紹介されている。1970年の4月11日に打ち上げられたアポロ13号は、月に向かう途上、司令船の酸素タンクが爆発するという前代未聞の事態に直面した。被害は、船内の電気、水、生命維持装置などにおよび、乗組員の生命が深刻な危険にさらされた。アメリカは既にアポロ11号で、人類史上初の有人月面着陸を成し遂げており、その直後のこの事故に、強い衝撃を受けた。その意味では、アポロ13号の事故は、アメリカの宇宙開発の汚点ともいえるかもしれない。しかし私は、アポロ11号よりも、このアポロ13号こそが、アメリカの宇宙開発が持つ底力を示す「快挙」なのではないかと思う。
映画の終わりに「アポロ13号は栄光の失敗だ」という言葉が出るが、同感だ。アポロ13号の物語にはある種の感動と共に、現代に生きる人類への深いメッセージが秘められていると思うからだ。
私がアポロ13号を見て感動するのは、地球帰還に至る、試行錯誤に満ちたプロセスにある。アポロ13号の様子を外から撮影した写真を見ると、酸素タンクの爆発で大きな穴があき、ただならぬ被害だと分かる。この状態では月面への着陸どころか、地球帰還すら不可能。結局アポロ13号は月面着陸を諦め、月の軌道を回った後、6日後に地球帰還を遂げるわけだが、そのプロセスは想像を絶する苦闘となった。アポロ13号の船内は、電力低下、極端な室温低下、酸素欠乏、二酸化炭素増加など、呼吸そのものもままならない、最悪の状況。この危機をどのように克服したのか。
NASAのチームは、まず地上にアポロ13と同じ環境の部屋を再現した。そして乗組員との交信の中で、船内にどのような物が残っているのか、どれが使用可能か、克明なリストを作った。検証は、ゴムホース、ひも、ビニールテープ、靴下にまでおよんだ。普通なら見落としてしまいそうなあらゆる物が、生存へのカギとなるからだ。そして船内で次々に起きていくトラブル(温度低下や電力低下、二酸化炭素上昇など)に対して、地上で実験を繰り返し、解決策をアポロの乗組員に連絡。乗組員はその方法を船内で実践していった。たとえば、二酸化炭素の上昇を食い止めるために、数センチのゴムホース、ビニール膜、靴下を組み合わせて奇妙な装置を作り、それを二酸化炭素浄化フィルターと接続して問題を解決するといった案配だ。その結果、船内はまるでパッチワークのような状態になったが、見てくれはとにかく、人間が生き続けられる環境がかろうじて作られ、1つ1つの危機を乗り越え、ついにアポロ13号は、地球帰還を果たす快挙を成し遂げた。
私はこのシーンを見て、今私達が暮らしている地球と似ているなあと思った。
温暖化や地球汚染が進行し、牙をむき始めた地球災害の中で、人類は限られた資源と知恵をつかって生き延びていかなければならない。サバイバル技術と運用する人間のチームワークがその成否のカギとなる。これは、アポロ13号と全く同じ状況ではなかろうか。
私達人類は、地球を捨てることは出来ない。この星の上にある、限られた資源や物質を使い、知恵を働かせて環境を守るシステムを作り、生き延びていくしか方法はないからだ。その意味で、知恵と勇気と協力で、見事に危機を乗り越え、生還を果たしたアポロ13は私達人類のモデルケースといっても良いかも知れない。
このように、宇宙空間で起きることは、時として、地球上の課題を解決するヒントを与えてくれる場合があると思う。
- 人工知能と人間
このごろ、人工知能(AI)についての報道が活発だ。AIは、いつのまにか私たちの社会に浸透し、既に社会構造を変え始めている。人類が宇宙に進出するとき、AIなしには不可能に違いない。宇宙空間では、人間とAIは最強コンビとして活躍するに違いない。しかしその時、AIが進化すればするほど、人間にしかできないことが重要になってくる。では人間にしかできない重要なこととは何か?未来社会では、そのことを深く掘り下げ、そのシナリオに沿った社会構造や教育が必要になってくる。
人間の脳とAIは、どこか違うのだろうか?
比較の仕方はいろいろあるだろうが、取材の結果、私は、「生きている」かどうかが判断の基準のように思う。人間の脳は、38億年の生物進化の果てに出来上がったものだ。しかしAIは生物進化の結果ではない。
つまり、脳は「生き物」、AIは「死に物」。これが根本的な違いではなかろうか?
人間の脳はどのようにできているのだろうか?
脳には「3匹の動物」が棲んでいるとよく言われる。一番奥に「ワニの脳」(呼吸や体温などの生存機能)、その上に「ウマの脳」(喜怒哀楽)、そして一番外側に「ヒトの脳」(知能や知性)の三層構造になっている。これは人間が進化するプロセスで、脳が増築されてきた結果で、この三層の脳が同時に働くのが人間の脳活動だ。したがって、「知能」は脳の働きの一部でしかなく、脳は「生きるため」にこそ存在すると言える。一方、AIは「ヒトの脳」(知能)の一部の機能を真似て増幅したものだ。一見人間の脳に似た動きをするが、AIは生き物ではないので、喜怒哀楽や、生存欲求はない。ただ、情報を操って、人間の知能の脳に似た振る舞いをしているだけなのである。
その例として、2017年に北海道大学が行った「AI俳句プロジェクト」を紹介しよう。このコンテストでは、最終的に、AIが作った「かなしみの片手開いて渡り鳥」という句が、最高点を獲得した。しかしAIは「かなしみ」とは何かを知らないまま、この句を作った。私たちは「かなしみ」という言葉を聞くと、人生の記憶がよみがえってくる。失敗した時の「かなしみ」、失恋した時の「かなしみ」、肉親が亡くなった時の「かなしみ」。。胸が締め付けられるような、あの苦いような、痛いような「かなしみの感覚」。しかし、AIはその感覚を知らない。ただ言葉を操り、悲しいふりをして、この句を作ったわけだ。
しかし、そんな心のこもっていない句に、感動する人間とはいったい何なのか、逆に考え込んでしまう。どうやら、このエピソードの周辺に、人間とAIの違いを解くカギがありそうにも思う。
- 未来を切り開く人間の冒険心とは
かつて、JAXA主催で、世界の宇宙飛行士による「人はなぜ宇宙に行くのか?」という3日連続のシンポジウムがあり、私が司会をすることになった。そこで議論されたテーマの一つに、人間の「冒険心」の話題があった。人間の知的好奇心、冒険心は、科学を推進してきた原動力だ。これこそ人間のあかし。私たちがAI時代にも死守しなければならない人間の特性といえる。
一体「冒険心」とは何か?
最近私は二人の脳科学者に興味深いことを聞いた。
一つ目は、人間とほかの動物の冒険心の違いについてだ。
興味深いことに、「冒険」は人間だけでなく、哺乳類もするらしい。
例えば子ネズミは、母親の元を時々離れ、探索行動をする。周りの環境がどうなっているかを確かめるために、周りをうろうろして、しばらくしたら慌てて母ネズミのもとに戻る。母親はいわゆる「安全基地」。子ネズミは、安心して探索行動を繰り返し、精神世界を広げていくのだそうだ。しかし大人になると、この探索行動は消え、子ネズミの「冒険の時期」は終了する。しかし、奇妙なことに、人間だけは、大人になってもこの探索行動をやめない。それは一体なぜか? 自分を守る親がいなくなっても、自分の友人たちや、グループ、組織、社会を「安全基地」として位置づけ、冒険を続けていくからなのだという。つまり人間は「心の安全基地」を、成長の途中で切り替え、果てしない探索行動(冒険)を続ける存在だというのだ。そしてこの行動を通じて、人類はアフリカ大陸から、世界中に拡散していった。グレートジャーニーのプロセスで、新しい発見をくりかえし、所属集団に情報を持ち帰って共有し、結果的に文明を発展させていったというのだ。
もう一つの説は、「ドーパミン予測誤差説」と呼ばれる考え方だ。
よく知られるように、ドーパミンは脳内の快楽物質。物事がうまくいったり、おいしいものを食べたときに放出される報酬物質で、これを求めて、動物は行動を起こす。ところが、最近言われているのは、ドーパミンは、単にいいことが起きたときに出るのではなく、「自分の予測」と「結果」が大きく食い違い、しかもその結果が「好ましい」という、二つの条件がそろったときに放出される、ということが分かってきた。例えば、ある素敵な場所を予測して出かけたら、予想以上に素晴らしい場所だったとか、予測して食べたものが、予測以上においしかったとかいう場合だ。しかし「予測との誤差」があっても、結果が悪かったら、ドーパミンは出ない。「予測との誤差」+「良好な結果」の組み合わせが必要なのだという。そしてその経験をした動物(人間)は、同じ経験をしようと、同じ行動を繰り返す。しかし、次第にドーパミンは少なくなっていく。結果に慣れ、予測と結果の誤差が減っていくからだ。そして人間は、新たな「誤差」を求めて次の行動をとろうとする。この行動は「未知なもの」にあこがれる人間の特性そのものといえる。別の言葉でいえば、知的好奇心とか冒険といえるものなのかもしれない。この人間独特の特性は、我々人類が進化の中で獲得した「生存戦略」であり、決して消えるものではない。そう考えると、人間とAIの関係は、人間は目標を設定し、AIはそれを補助する形が最強ということになる。
- ロボコンに見る教育論
知的好奇心を子供に育てる方法や教育はどうあるべきなのだろうか?手前みそだが、NHK時代私がやっていた「ロボコン」もその一つだと思う。
私はNHK時代、ロボコン(アイデア対決ロボットコンテスト)の担当プロデユーサーをしていたことがある。ロボコンからは多くのことを学んだ。
あまり知られていないが、NHKロボコンの源流は、アメリカのマサチューセッツ工科大学と東京工業大学の授業だ。ロボット工学の教授が、学生の心に火をつけようと、「限られた材料」でロボットを手作りさせ、性能とアイデアを競う競技大会を始めたところ、これが大当たり!たちまち名物授業となった。なにせ、ロボコンには、正解がない。何をやっても許される。そして自分が作ったマシンが、競技場で動き活躍するのだ。その自由な精神と、創造の喜びが、学生たちの心に火をつけたのだろうと思う。NHKはその様子を番組で紹介し、それがきっかけで、1988年に高専ロボコンが誕生した。そして今やロボコンは、大学生、中学生、小学生にまで広がり、私が設立に関与したABUロボコン(アジア太平洋放送局連合)など、日本が世界に誇る、グローバルイベントに発展した。
タイの前国王も、アジアのリーダーたちも、ロボコンファンが多く、アジアの多くの若者の支持を得て、ロボコンは急速に広がっていった
なぜロボコンは、こんなに若者たちを夢中にさせるのだろうか?その秘密を、「ロボコンの祖」と言われる、森政弘東京工業大学名誉教授に聞いた。
ロボコンには数々の名言がある。
まず「ロボコンに正解なし」という言葉が重要だ。
ロボコンは、材料や競技大会のルールさえ守れば、どんなマシンを作ろうが、形や動きは自由だ。「これが正解」といった、定型的な正解はなく、まさにアイデアこそ、勝負のキーとなる。荒唐無稽、抱腹絶倒、空前絶後のロボットこそ、ロボコン精神が最も大切にするものだからだ。いまや、人工知能が出現し、人間の仕事が消滅していかざるを得ない現代においては、ロボコンの自由闊達な精神が重要なカギとなってくる。
そして、「モノが人を育てる」という言葉がある。
たとえば考え抜かれたマシンの設計図があるとする。しかし作ってみると、マシンはなぜか動かない。町工場のベテラン職人に聞くと、「遊び」が足りないからだという。設計者は、指摘に反発するが、やってみると、確かにマシンは動いた。設計図は、ものつくりの羅針盤だが、ものつくりのプロセスで、その後「モノとの格闘」が始まる。いくら設計図で指示されても、例えば、鉄を曲げようにも、鉄という素材は、そのようには曲がらない場合がある。現実は理屈通りにはいかない。「モノ」が反逆しているのだ。学生たちは、ロボコンを通じて、自分が思い描いたイメージを実現するためには、モノと対話し、格闘し、そして命を吹き込んでいかなければならないことを知る。そしていつの間にか、モノに対する敬意を学んでいく。
「ものつくり教育」の本質は、人間の想像力と、現実のはざまで生み出される美しい関係性にあるのかもしれない。
最後に、「勝ったマシンにゃ力がある、負けたマシンにゃ夢がある」という言葉。これは負けが多いチームの先輩が、後輩に残した言葉だ。しかしなかなか含蓄がある言葉だ。ロボコンは、ただ勝てばいいというものではない。つまらない形の、ただ強いだけのマシンは、あまり面白くない。たとえ弱くても、作り上げようとした夢の大きさ、しなやかさ、独創性こそロボコン精神の柱だという発想だ。実は、ロボコンには「アイデア倒れ賞」が設定され、そのような学生をたたえるシステムが用意されている。
私は、ロボコンを見ていると、子供のころ竹とんぼを作って、野原で飛ばした、あの気持ちを思い出す。自分の頭で考えて、自分の手で作り、それを使って遊ぶという単純な行為が、いかに感動的かを、今となって、しみじみと感じる。宇宙船を作り、それを打ち上げる大人たちも、同じ精神なのに違いない。しかし、今の教育に、そのようなわくわくした、のびやかな要素が、どれほど貫かれているだろうか?
これからは、きゅいくの根本について、もっと考える必要があるように思う。
- 人類の未来は?
人類は、いつまで生き延びていけるのだろうか?
私は、最近の人類社会を取り巻く困難な状況を見て、時々暗い気持ちになる。気候変動にしても環境問題にしても、国際間の紛争や核の脅威にしても、すべて人類の「知」が作り上げたものだ。しかし私は、それらの課題を「知」によって解決できないはずはない。「宇宙時代」という新しい時代に突入する今、私たち人類は、いまこその本領を発揮して、輝かしい未来に進み出る時であってほしい。
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